SUPPING CULTURE REVIEW

批評同人誌『PENETRA(ペネトラ)』のメンバー。ジャンルフリー、ネタバレありです。https://penetra.stores.jp

阿部和重・伊坂幸太郎(2014)『キャプテンサンダーボルト』

多くの読者は「純文学とエンタメの異色コラボレーション」という誘い文句に惹かれて、この本を手に取るのだろう。彼らはすでに阿部和重ないし伊坂幸太郎のどちらか(もしくは両方)の愛読者である可能性が高い。この小説最大の不幸は、彼ら自身のすぐれた作品群と直接比較されてしまうことにある。世界観の魅力では阿部の過去作に及ばず、筋の面白さにおいても従来の伊坂作品を超え出ないというのが、率直な印象ではないか。たしかに合作とは思えないほどリーダビリティは高い。伏線回収にも抜かりはない。けれども、1+1が3になるようなマジカルな瞬間はついに訪れなかった。二人の作家がアイデアを持ち寄り、擦り合わせを重ねて一つの小説を作り上げたらこんな感じになりそう、という想定の枠内にあくまで留まっているのだ。そう考えると今度は、読み易さや破綻のないプロットも鼻についてくる。結局は各々の作家性を排した、妥協可能な要素の組み合わせで作品が成り立っているのではと思えてしまう。さらに言えば、ここで直面するのは、私たちが小説家と作家性を強く同一視しているという事態だったりもする。たとえば映画なら監督(演出家)、テレビドラマなら脚本家といった具合に、私たちは共同で制作された作品の作家性を、便宜的に特定のアクターに帰属させたがる。言うまでもなくそれは幻想で、作品とはプロデューサー、脚本家、演出家や俳優、それに資本といった諸力がぶつかり合って偶々出来上がる不気味な産物にすぎないわけだが、小説というメディアだけは例外的に、小説家=作家性という擬制をかろうじて保持しているようにみえる。『キャプテンサンダーボルト』を否定したくなるのは、その等号が必ずしも堅固でないということを思い知らされるからではないか? せめて小説家にくらいは、混じり気のない作家幻想を抱かせていてほしい。いつだって世界には、単純であってほしいのだ。

キャプテンサンダーボルト

キャプテンサンダーボルト