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批評同人誌『PENETRA(ペネトラ)』のメンバー。ジャンルフリー、ネタバレありです。https://penetra.stores.jp

クリストファー・ノーラン(2014)『インターステラー』

かつてパイロット兼エンジニアとしてNASAに在籍していたクーパー(マシュー・マコノヒー)は現在、不本意ながら田舎町で農業に従事している。劇的な環境変化によって農作物が次々と疫病にかかり、食糧確保が人類の死活問題となったためだ。宇宙開発にコストをかける余裕はなくなりNASAは廃止、クーパーの娘・マーフ(マッケンジー・フォイ)が通う学校では「アポロ計画はソ連を欺くための捏造だった」と教えられてさえいる。ある日、ひどい砂嵐に見舞われて家に帰り着いたクーパーは、マーフの部屋に吹き込んだ砂の固まりが、バイナリデータとして地図上の座標値を示していることに気づく。向かった先にあったのは、廃止されたはずのNASA。世論の風当たりを受けぬよう、極秘で活動を続けていたのだという。物理学の権威であるブランド教授(マイケル・ケイン)と再会したクーパーは、人類存亡をかけたプロジェクト=「ラザロ計画」に参加するよう打診される。マーフに強く引き止められ思い悩むクーパーだったが、最後には「必ず帰ってくる」と言い残し宇宙へと旅立つ。

さて、『インターステラー』は若干不親切な作品である。日頃からハードSFに親しい観客であれば問題ないのだろうが、そうでない場合、必要とされる前提知識の不足が映画への集中を妨げてしまう恐れがある。まずは相対性理論だ。「ウラシマ効果」と称される現象に馴染みがないと、頭の中は疑問符で埋め尽くされてゆく。それ以外にもハードルはある。たとえば終盤のスペースコロニー内で、草野球の打球が天井にある民家の窓を突き破るシーンが出てくるが、この場面の成り立ちが飲み込めず、エンディングどころではなくなった観客もいたのではないか(主に私のことだ)。そういう人たちは当然、クーパーらの乗り込んだ宇宙船「エンデュランス」が回転しながら飛行している理由もわかっていなかったはずで、数えていけばキリがない。消化不良を起こした彼らの反応は大きく二つに分かれるだろう。前者はクーパーとマーフの関係性のみにフォーカスし、消化不良についてはこの際不問に付す。後者は制作サイドの説明不足を非難し、おそらくは印象の悪さから、父娘愛の描き方にも不満を抱く。私は後者だったが、いずれにしても不幸なことだ。作品を観終わるまで周辺情報に触れないというスタンスは、先入観を排すうえで理想的だとは思う。けれど、こと『インターステラー』に関しては例外とすべきではないか。この映画を二度観るハメ(?)になった私の結論である。

初回の反省をふまえ、ストーリーと背景知識を一通り押さえてから再鑑賞すると、また別の景色がみえてきた。もっとも印象が変わったのは、後半のクロスカッティングのシーンである。宇宙空間で奮闘するクーパー。一方のマーフは実家に戻り、何があろうと強情に家を離れようとしない兄・トムのもとから、彼の病気の息子と妻を逃がそうと試みる。最初に観たときは、マーフが農場に火を放つことに違和感があった。トムの気を逸らすためと解釈はできるが、単なる映像上の演出にすぎないように思われた。しかしこのシーンには、クーパーとマーフをつなげる必然的な意味があったのだ。マーフは父親が自分たちを捨てて宇宙へ行ったと恨んでいた。地球に残っていれば、じり貧ではあっても、大切な時間をともに過ごすことができたはずだと。だが、ここでの彼女の行動は、住み慣れた家を後にして新たな可能性に活路を求めたクーパーの決断と、みごとに相似している。それを明らかにすべく、トウモロコシ畑に火を放つ=退路を断つ儀式が必要とされたのだ。トムと彼の息子、そして死んでしまった娘は、地球に留まることを選択したときのクーパーの未来でもある。「運動の第3法則:前へ進むためには、何かを後ろへ置いていかなければならない」という台詞は、重なり合う父娘の姿を一言で表現している。監督のクリストファー・ノーランは町山智浩とのインタビューで、今日発達しているのはスマートフォンやインターネットなど内向きの科学技術ばかりだとして、人類が宇宙に夢をみていた時代への愛着を語ったという。居心地のよい(ただし同時にじり貧でもある)場所を離れ、「何かを後ろへ置いて」前に踏み出せるか。『インターステラー』が私たちの琴線に触れてくるとすれば、その選択を迫られているのはマーフやクーパーだけではないということだろう。

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