SUPPING CULTURE REVIEW

批評同人誌『PENETRA(ペネトラ)』のメンバー。ジャンルフリー、ネタバレありです。https://penetra.stores.jp

間瀬元朗(2013〜)『デモクラティア』

デモクラティアという言葉の語源は、ギリシャ語のデモス(民衆)とクラティア(支配)である。ここに状態や性質を示す接尾辞の「-cy」が加わると、私たちにも馴染みのあるデモクラシー、すなわち民主制が現れる。私たちの多くは、民主政治という体制を所与のものと考えているはずだ。もちろん現実の政治に対する不満は尽きない。最近すっかり耳にしなくなったものの、民主党政権やその前段となるポスト小泉の自民党政権時代には、衆参で多数派勢力が異なる状況が「ねじれ国会」と形容され、「決められない政治」というフレーズが繰り返しメディアに登場した。対照的に、直近の安倍内閣は政治手法が専横的だと、つまり「決めすぎる」と非難されているが、どちらの声も民主主義じたいを否定するものではなく、民意がスムースに反映されないことを問題視している。そうした弊害を和らげるアイデアとして提唱されたのが、東浩紀による「民主主義2.0」だったとひとまずは整理できよう。東は言う。

わたしたちはもはや、自分たちに向かない熟議の理想を追い求めるのをやめて、むしろ「空気」を技術的に可視化し、合意形成の基礎に据えるような新しい民主主義を構想したほうがいいのではないか。
—東浩紀(2011)『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』講談社、七頁

ここで東は、「大衆の私的で動物的な行動(データベース)が、情報技術により集約され可視化され、政治家や専門家たちの公的な合意形成(熟議)を制約」(二〇八頁)するような仕組み=「民主主義2.0」を想定している。発想の土台には集合知の利用がある。

集合知は、分散し独立した判断を下す多様な個人の意見を、適切なメカニズムで集約することで得られるものである。集合知の手法の擁護者によれば、特定の要件さえ満たすならば、専門的な判断が要求される問題に関しても、少数の専門家よりも多数のアマチュアのほうが原理的に正しい判断を下すことができるらしい。
—同前、三〇頁

『イキガミ』の作者として知られる間瀬元朗が一昨年に連載開始した『デモクラティア』は、東の「民主主義2.0」を部分的にシミュレートしたような作品となっている。あらすじはこうだ。関東大学工学部に通う前沢は、ネット上で多数決を効率よく進めるためのプログラムを開発し、学内起業支援(インキュベーション)を受けて特許を出願。教育産業からの商品化依頼もあり、マネタイズが視野に入っていた。プログラムは次のようなものである。

たとえば、100人の人間がネット上で何かの意志決定をしなきゃならないとして… その100人がそれぞれそこに自分の意見を書き込む… (中略)俺のアイデアでは最終的に計五つの候補が選択肢に並ぶんだけど、上位の多数意見はその内の“三つ”だけで… 残りの“二つ”はまったく反対の意見が並ぶんだ。(中略)つまり多かった意見とはまったく反対の、“たった一つしかない”単一意見… それが早いもの順に二つ並ぶ…(中略)珍妙な意見もあえて選択肢に並べることで、より重層的な“多数決”が効率的に進められるってこと。
—scene.1

前沢はサークルの飲み会で、別の研究室に所属する井熊という男と出会う。井熊はプログラムに強い興味を持ち、自分が研究しているヒューマノイド(人形ロボット)にそれを搭載すれば、“究極”の人間を生み出せるのではないかと語る。プログラムそのものは「民主主義2.0」と完全に対応しているわけではない。現行の民主主義=代表制に動物的な集合知を対置させる東のアイデアに対し、前沢のそれは、集合知と集合知内部の偶発的なノイズを並列する内容だからである。興味深いのは井熊がプログラムを、集合知という“英知”と、それを多数決で監視する“世論”の相克と捉えていることだ。一見すると、前沢プログラムは「民主主義2.0」と逆の方向を向いているように思える(集合知 ←→ 集合的決定)が、決定に至るまでの回路Aを別の回路Bが牽制する構図は同一と言えよう。『デモクラティア』はそうしたメカニズムが直面する問題群を描こうと試みる。さて、前沢と井熊が完成させた女性型ヒューマノイドは、無作為に抽出されたネットユーザー三千人の投票により「徳永舞=他音冬」と命名された。ファーストシーズンを収めた単行本1〜2巻のラストでは、彼女(?)という存在のはらむ危険が早々に露呈する。もちろんこれは始まりにすぎない。セカンドシーズン以降でどんな実験が繰り広げられるのか、大いに期待を込めて見守りたいと思う。

デモクラティア 1 (ビッグコミックス)

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