SUPPING CULTURE REVIEW

批評同人誌『PENETRA(ペネトラ)』のメンバー。ジャンルフリー、ネタバレありです。https://penetra.stores.jp

九龍ジョー(2015)『メモリースティック ポップカルチャーと社会をつなぐやり方』

ライター、編集者の九龍ジョーによる初の単著。評論やインタビュー、座談会など媒体を越えて九龍の仕事がまとめられている。彼はまえがきで言う。ポップカルチャーについて書くことで、自分がどう社会とつながれるのかを考えていた。対象はばらばらでも、その問いを繰り返してきた。『メモリースティック』はそうした軌跡をなぞるように構成されている、と。

本編はミュージシャン・前野健太を収めたドキュメンタリー映画『ライブテープ』の追想で始まる。その『ライブテープ』を監督したのが松江哲明。『童貞。をプロデュース』で知られる松江は、現在放送中のドラマ『山田孝之の東京都北区赤羽』を山下敦弘と共同で手がけるなど気鋭の映像作家だ。九龍は『ライブテープ』の撮影中に、コンテンポラリー・エキゾチック・ロック・オーケストラことceroのヴォーカリスト・髙城昌平と出会う。ceroは東京のインディ音楽シーンの中心に位置している。そのシーンにあって異彩を放つのが、高円寺に拠点を置くパンクバンド・どついたるねん。アルバムの発売日にはメンバーが自転車に乗りファンの自宅まで作品を届けて回るという。こんな感じで数珠つなぎに(時にそうでないこともあるが)、現代を生きるアーティストたちの動向が紹介されていく。路上生活者のフィールドワークで有名になった坂口恭平。東日本大震災と原発事故のあと、彼は故郷の熊本に移住し避難者の受け入れを始める。その呼びかけに反応したのが、チェルフィッチュを主宰する演出家・岡田利規だった。そこから五反田団ポツドールと演劇界隈に話がつながり、松井周の劇団・サンプルへたどりつく。サンプルの公演『ファーム』を観て、九龍はひとつの疑問を抱く。われわれの社会でヘテロ恋愛や生物学的な親子関係が特別視されるのは、それが種の再生産=生殖に直結しているからだろう。では、生命科学の進歩がそれを相対化する日がきたら、家族や愛のかたちはどうなるのか? 問いかけられて、この稿が収録された第2章のタイトルにようやく思い当たる。「非正規化する社会と身体」。実は岡田利規のくだりの次には、彼の舞台『エンジョイ』の原作となった『フリーターにとって「自由」とはなにか』の著者・杉田俊介についての文章が続いていた。杉田は近刊『宮崎駿論 神々と子どもたちの物語』から伺える文芸批評家の顔とは別に、雇用や介護をテーマとしてもいる。『メモリースティック』を頭から通読していくと、杉田らの登場にはちょっとした唐突感がある。だが九龍にとって、章題にあらかじめ示されていたように、社会評論とセクシュアリティをめぐる芸術作品は「非正規」というキーワードのもとに同列に論じられる対象なのである。

九龍はあとがきで次のように語る。本書のサブタイトルに『ポップカルチャーと社会をつなぐやり方』とあるが、「つなぐ」ことはあくまで受け手の課題である。たとえばひとつの作品が、誰か(受け手)にとっては自身のリアリティや社会状況とシンクロして感じられる。そうした可能性を作家の意図とは関係なく抽出しようと試みたと。なるほど、その狙いは実を結んでいるように思われる。けれどこの本を読んで印象に残るのは、取り上げられた個別のアーティストや作品ではなく、九龍ジョーという人間の有り様だったりもする。原稿が書かれた二〇〇五年から二〇一五年の期間に、東京に暮らすひとりの生活者が、何に関心を持ち興奮を覚えてきたのか。『メモリースティック』はそうしたことの見事なドキュメンタリーとして成立している。冒頭で扱う作品が『ライブテープ』だったのは偶然ではない。吉祥寺を歌いながら練り歩く前野健太と、九龍の姿は、いまや重なってみえる。

メモリースティック  ポップカルチャーと社会をつなぐやり方

メモリースティック ポップカルチャーと社会をつなぐやり方