SUPPING CULTURE REVIEW

批評同人誌『PENETRA(ペネトラ)』のメンバー。ジャンルフリー、ネタバレありです。https://penetra.stores.jp

カズオ・イシグロ(2015)『忘れられた巨人』

イシグロはこれまでも作品ごとにスタイルを大きく変える作家として知られてきた。『わたしを離さないで』はSFの要素を大胆に盛り込んだ作品だったし、『充たされざる者』は底なしの不条理を描くリアリズム度外視の意欲作だった。それゆえ、実に十年ぶりというこの新作長編を前にしても、イシグロの愛読者たちは、ちょっとやそっとのことでは驚かないぞと高を括っていたにちがいない。けれど、六世紀と思しき中世イギリスが舞台の、ジャンルとしてはファンタジーに属する作品となれば話は別である。小説読みにもさまざまな流派があろうが、その対象にファンタジーを含むか否かはひとつの分水嶺となっているように思う。人を選ぶジャンルなのだ。『忘れられた巨人』を読むとき、われわれは、この作品がどうしてファンタジーを必要としたのか最後まで問いつづけることになる。
アクセルとベアトリスは、伝説のアーサー王がサクソン人との戦いに勝利した時代に暮らす老夫婦。奇妙なのは彼らの記憶に欠落がみられることで、つい昨日やおとといの出来事さえ満足に思い出せないことがある。どうやらこの世界に立ち込める「霧」が健忘の原因らしいのだが……。ふたりにはかつて息子がいたと言う。しかし、今となってはその顔かたちも、いなくなった理由もわからない。後半まで読み進めてから遡るに、おそらくは「霧」の力の弱まりとともに、彼らは息子の存在を思い出しつつある。アクセルとベアトリスは息子に再会できるのか? 人々を忘却にとどめおく「霧」の正体とは?

「かつて地中に葬られ、忘れられていた巨人が動き出します。遠からず立ち上がるでしょう。そのとき、二つの民族の間に結ばれた友好の絆など、娘らが小さな花の茎で作る結び目ほどの強さもありません。男たちは夜間に隣人の家を焼き、夜明けに木から子供を吊るすでしょう」

作中で「忘れられた巨人」について触れた箇所の引用である。気づけば物語は、老夫婦の息子探しという当初の枠組みを超え出て、アーサー王が平定したブリテン島の、血塗られた成り立ちにフォーカスしはじめる。一見秩序立った世界も、その起源には剥き出しの暴力と欺瞞を内包している。「霧」に覆い隠されていた対立の根が、ふたたび島を揺さぶろうとしているのだ。イシグロは、呪われた歴史の中和剤として、本作にファンタジーを必要としたのだろう。同時に彼は、ファンタジーのもつ寓話性を借りて、「ブリテン島」の出来事がいまこの時代にも起こりうるのだと、遍在を訴えているようにみえる。

忘れられた巨人

忘れられた巨人

 

ヴァージンからスーサイド アンドリュー・ニコルの栄光と自滅

ずっとアンドリュー・ニコルについて書きたいと思っていた。大学に入りたての頃、暇に飽かせて手当り次第に映画を借りた。当時観た作品の内容はもうほとんど忘れてしまったが、『ガタカ』と『トゥルーマン・ショー』だけは、いつまでも頭の片隅に残っていた。今だって好きな映画を挙げろと言われれば、そのふたつは間違いなく候補になる。けれど、その後のアンドリュー・ニコルはあまりパッとしなかった。『ロード・オブ・ウォー』も『TIME/タイム』も、どこかしっくりこない。その印象は『ザ・ホスト 美しき侵略者』にいたって決定的となる。ニコルはいつの間にかボロボロになっていた。タオルを投げろ、誰かやつをリングから降ろすんだ。
去る3月に『トゥルーマン・ショー』がブルーレイ化され、数年ぶりに作品を観返す機会があった。大胆かつ緻密な設定、辛辣なユーモア、ジム・キャリーの好演。やはり、どれを取っても傑作の名に恥じない出来栄えである。だからこそ、こう問わずにはいられなかった。ニコルはどこで道を誤ったのか? それは避けがたいことだったのか?
本稿はひとりの映画作家をめぐる評伝である。ニコルの作品は大まかに、前期=90年代、中期=00年代、後期=10年代と区分できる。『トゥルーマン・ショー』(98)と『ガタカ』(97)が前期を成し、この時代のアンドリュー・ニコルは、人間の可能性を称えたピュアなヒューマニストである。中期の『シモーヌ』(02)では、彼の皮肉屋気質が強まり、自身に対しても批判的な目を向けるようになる。これをニコルのアイロニスト期とする。後期の『TIME/タイム』(11)になると、彼は開き直ったように、ハリウッド・マナーに迎合しはじめる。従来のモチーフを踏襲してはいるものの、『タイム』は明らかなセルアウトであり、自作の劣化コピーだった。クリエイティビティ喪失の危機。その懸念は『ザ・ホスト 美しき侵略者』(13)において、考えうる限り最悪のかたちで現実のものとなる。ニコルにとって『ザ・ホスト』の公開は、築き上げたフィルモグラフィーを台無しにする自殺行為に等しかった。躊躇なくキャリアを傷つける姿は、もはやサディストにみえてくる。彼の足跡はあまりにも興味深い。ジョー・ストラマーなら、一度時代をつくったやつに二度目はないと括るだろう。映画作家としての再起は難しいかもしれないが、心配は要らない。彼のキャリアの行く末が、作品以上に、私たちを楽しませてくれるだろうから。アンドリュー・ニコルの監督・脚本最新作は、米国では今年5月15日に公開される。

(中略)

シモーヌ(02)
そんなニコルの作風が一変したのが『シモーヌ』である。それまでのヒューマニスト然とした姿は消え失せる。ここにあるのは、皮肉、皮肉の連続だ。映画監督のヴィクター・タランスキー(アル・パチーノ)は行き詰まっていた。監督の立場は世間が想像するほど立派なものではなく、人気女優のご機嫌取りに奔走することもしばしば。映画の命運を握る有力なプロデューサーは離婚した妻でもあり、いつまでも芸術主義的な映画ばかり撮っているわけにはいかないと彼をたしなめる。容易に連想されるように、タランスキーとはクエンティン・タランティーノ、そしてアンドレイ・タルコフスキーである。そんな彼の苦境を救ったのは、とある知人の遺した画期的なCGプログラムだった。初音ミクがより人間に近づいたものと思えばわかりやすいだろうか。タランスキーはこのプログラムを用いて、現実には存在しない、しかし完全無欠な女優をつくり上げる。彼はプログラムの起動コマンド(=
simulation one)にあやかり、彼女をシモーヌと名付けて世に問うのだった。彼女の主演映画は立て続けに大ヒットを記録。タランスキーの名声も高まるが、シモーヌの圧倒的な人気と存在感は次第に彼自身を脅かし……。「シモーヌなどいない、シモーヌの正体は俺だ。不可能を成し遂げ(中略)俺がシモーヌを世に出した(I made Simone)」。進退窮まった彼は元妻にそう真実を告げるが、彼女の答えは「ヴィクター、シモーヌがあなたを世に出したのよ(She made you)」とつれなかった。タランスキーはシモーヌ・プログラムの破壊を決意する。
ニコルはハリウッドにまつわるほとんど全てを皮肉っているようにみえる。傲岸不遜なスター女優、テクノロジーに依存する映画監督、まがい物でつくられた作品を熱狂的に迎える観客たち。こうした冷笑的な態度は、おそらく初期二作品の現場経験で彼に培われたものだろう。その醒めた視線はニコル本人にも向けられている。『トゥルーマン・ショー』と『ガタカ』において、主人公たちは、巨大メディアに管理された空間、遺伝子工学により排除された階級での生活を余儀なくされていた。彼らは被害者として描かれていたのだ。ところが、『シモーヌ』のタランスキーは、テクノロジーを駆使して大衆を欺く側の人間であり、『トゥルーマン・ショー』でいうクリストフのポジションに位置している。クリストフ(Christof)が神の代理表象だったように、タランスキーもヴィクター(Victor)=征服者というファーストネームをまとっている。つまり、初期二作品と『シモーヌ』では、フォーカスする人物の立場が逆になっているのである。ニコルは、かつて二項対立を構え攻撃していた側にタランスキーを置く。もちろんタランスキーは、ニコルの自画像でもあるはずだ。当初の彼はヒューマニズムを標榜する作家だったかもしれない。だが、ハリウッドの現場を目の当たりにし(想像を超えたしがらみや醜態に溢れていることだろう)、自身もその中にまんまと飲み込まれそうになっている。彼が属すのは、ヒューマニズムなど方便にすぎない業界なのである。そこへ発想の転換が訪れる。ならばそれを題材に撮り、笑い飛ばしてしまえばいいのではないか? 行き詰まったら目についたものに飛びついてやれ。作家性なんぞ知ったことか。そんなものは後から勝手についてくる—。さて『シモーヌ』は、次回作への予告とも取れるシークエンスで幕を閉じる。ニュースキャスターと会話するシモーヌ。「今後は政治の世界を目指すつもりなの(中略)この子が私にそう決意させたの(中略)ヴィクターも私もこの子のため、世界の将来が心配なの。そうよね? ヴィクター」

⇒全文は2015年5月4日(月・祝)の第二十回文学フリマで販売した批評同人誌『ペネトラ』第6号に掲載しました。ご来店、ご購入いただいた皆様、ありがとうございました。

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『山田孝之の東京都北区赤羽』×『テラスハウス クロージング・ドア』

池袋HUMAXシネマズで『テラスハウス クロージング・ドア』を観てきた。公開からしばらく経った平日夜の回ということもあり、人の入りはまばら。劇場のエレベーターに乗った時点でうすうす予感していたが、ひとりで来たのはどうやら自分だけのようだ。たいていは若い女性の友だち連れで、カップルもちらほら。おそらく全員がテレビ版「テラスハウス」のファン。自分はまったくの未見だったため、テンション的にはけっこうビハインド。近くの席からは開演を待つ高揚感が伝わってきた。肝心の中身はというと、テレビシリーズ抜きでも意外に楽しめる内容。ただ、フェイクかどうかで言えば、どうみてもフェイク。例えばクライマックスの、てっちゃんこと菅谷哲也が意中の女性に告白するシーン。ムードの良い水辺に連れ出してアタックするものの、あえなくフラれてしまう。ちょうどそのタイミングで、対岸の建物の明かりが次々に消えていく(ご丁寧に「22:00」とデジタル時計がフレームに収まってもいる)。やらせの判断材料にはこの場面だけで十分ではないか。それ以外では、数回ある海辺のシーンで音声がクリアに録れすぎているのも気になる。アフレコと思われるが、後日の録音風景を想像すると、けっこうシュール。だが、そうしたモヤモヤが吹き飛ぶほどに、ラストカットは素晴らしかった。てっちゃんの失恋を経て、年末には全員がテラスハウスを出ることに。他のメンバーは先に家を後にし、プロモーションでも使われていた、てっちゃんが単身ドアを開け外へ向かおうとする構図が繰り返される。ついに外へ出た瞬間、スクリーンは真っ白なバックと「テラスハウス」のロゴに切り替わった。そこからは音楽もテキストも一切なし。エンドロールも極端にみじかい。台本があるのならハッピーエンドはいくらでも可能だったはずなのに、そうはなっていない。ラストカットの突き放した演出は、「テラスハウス」がメンバーたちの自発的な心情と行動だけで完結する空間であり、外部=やらせなど存在しないと主張しているかのようだ。その切実さは強度において、番組が本来必要としたはずのリアリティを優に上回っていた。

どうして長々と「テラスハウス」の話をしているのかと言えば、それが『山田孝之の東京都北区赤羽』(以下、北区赤羽)の合わせ鏡になっているからである。『北区赤羽』は実にイカれた作品だ。2014年初夏、主演映画「己斬り」の撮影に入っていた山田は、突如として役と現実の区別がつかなくなり、自らの首を斬り落とすシーンに、模造刀ではなく真剣を用意するよう監督の山下敦弘に迫る。それがムリならこれ以上演技はできないという山田。撮影は中止され映画はお蔵入りとなる。その後、山田の自宅に呼び出された山下監督は、彼が自分の演技に「軸」がないと思い悩んでいることを知る。そんな山田にとって、苦境を打開するヒントになりそうなのが、清野とおるによるノンフィクション漫画『東京都北区赤羽』だという。自分らしく生きる人々に触れることで「軸」を模索したいと考えた山田は、赤羽に移り住み生活する様子をカメラに記録してほしいと山下に依頼する。こうして赤羽での暮らしが始まるが……。さて、番組ホームページで山下は、『北区赤羽』を《連続ドキュメンタリードラマ》と称している。つまりこの作品はスタート地点から、純粋なドキュメンタリーたろうとしていない。対照的に「テラスハウス」は《リアリティショー》や《台本のない日々》とあり、あくまでドキュメンタリーを装おうとしていることがわかる。結果的に、『北区赤羽』が虚実入り交じりの壮大な実験に成功する一方で、「テラスハウス」は意図せぬ終了を余儀なくされた。最終話で山田は、親しくなった赤羽の人々とともに、桃太郎をベースにした劇を披露する。ここで思い出されるのが、そもそもの発端となった「己斬り」であり、そのあらすじは「刀を捨て静かな生活を営んでいた浪人慎之助が、仲間の為に戦い自身の悪と向き合う物語 」だった。桃太郎劇は、山田なりに「己斬り」をやり直したものと言える。この作品は、赤羽を舞台にした現代の寓話=オデュッセイアなのである。

戦略的にも演出面でも、巧みさでは『北区赤羽』に軍配が上がるだろう。けれど不思議なもので、両者を観終わってみると、『クロージング・ドア』のほうに惹かれている自分がいた。あらかじめ虚構を前提にした『北区赤羽』と、一度ついたウソをどこまでもキープしなくてはならない「テラスハウス」。やはり後者の必死さこそ、リアリティ番組というジャンルを観る最大の冥利ではないだろうか?

TERRACE HOUSE TUNES-Closing Door

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クリント・イーストウッド(2015)『アメリカン・スナイパー』

あくまでクリス・カイル(ブラッドリー・クーパー)という一人の男の描写に留まろうとする、強い意志。それが『アメリカン・スナイパー』の特徴だ。この作品においては、何が起きていたのかを正しく知りたい、出来事を総体として俯瞰したいという欲望が、厳に慎まれている。それを「主義としての視野狭窄」と形容することも可能だろう。彼が加わったイラク戦争は世界中に多くの波紋を呼んだことで知られる。最大の問題は、開戦の事由とされる大量破壊兵器の存在を証明できなかったことにある。いわく、大義のない戦争。中東石油利権の確保、軍産複合体の陰謀、ネオコンによる独善的な正義の執行……。戦争の是非や背景をめぐりいくつもの議論と解釈が繰り広げられた。だがそうした言説は、いずれもイラク戦争をマクロの視点で把握しようとするものであり、どこか空虚さがつきまとう。たしかにきっかけは利権だったのかもしれない、独善だったのかもしれない。イーストウッドは言う。それがどうした? 仮に答えが出たところで元には戻らないものがある。家を追われたイラクの人々。夫を、父を亡くしたアメリカの家族たち。彼らにしてみれば、戦争の理由など言葉遊びにすぎない。生活の破壊と近親者の死という剥き出しの現実が残されているだけだ。『アメリカン・スナイパー』はそうしたドライな認識に貫かれている。人によってはこの作品を、戦争がアメリカ側からのみ描かれていると非難するかもしれない。大国の傲慢に眼をつぶり、『地獄の黙示録』よろしく現地の人間を残忍な性格と思い込ませ、射殺を英雄的な行為のように称えていると。もしそう思うのなら、結論ありきの映画体験と言わざるを得ない。これをアメリカ目線で制作されたイデオロギッシュな作品と切り捨てるのは幼稚な発想である。『アメリカン・スナイパー』はアメリカではなく、常にクリス・カイルの側に、より正確にはクリス・カイルのみに立脚して撮られているのだから。映画は全編にわたりカイルにフォーカスし続ける。彼を離れてマクロな視点へと浮上することは一度もない。同時に、撃たれる側の人間へ感情移入を促すこともしない。それらの視点を取り入れると、こちら側とあちら側双方に配慮した、あたかも戦争の「全体像」のようなものが立ち上がってしまう恐れがあるからだ。それはイーストウッドの意図するところではない。ハイライトは終盤近く、朦々たる砂塵に包まれてカイルの視界がほとんど利かなくなるシーンだろう。『アメリカン・スナイパー』においては、見えないことがクライマックスとなる。クリス・カイルから決してフォーカスアウトしないことが主張となる。そして、破壊と死という現実だけがこちらを覗き込んでいる。これが「主義としての視野狭窄」であり、本作を傑作たらしめる誠実さのあり方なのだ。

さて、『アメリカン・スナイパー』とテーマを共有する作品として、キャスリン・ビグロー監督の『ゼロ・ダーク・サーティ』(12)を挙げておきたい。ジェシカ・チャスティン演じるCIA分析官マヤは、ウサマ・ビン・ラーディンの潜伏先を突き止める使命を課されている。捜査は難航が続き、自身も数々の危険にさらされたうえ、親しくしていた同僚の女性を爆弾テロで失うが、ついにビン・ラーディンの所在を明らかにし、特殊部隊による急襲を実現するのだった。友人の死に直面し、報復を誓う筋書きは『アメリカン・スナイパー』と同様だが、『ゼロ・ダーク・サーティ』は対テロ戦争に批判的な立場を取っている。映画の序盤では、CIAが敵方の捕虜に非人道的な拷問を加える場面が描かれた。グアンタナモ基地やアブグレイブ刑務所で、実際に行われていた行為がベースになっているとされる。観客は当然、目的のためならば手段を選ばないCIA=アメリカの非情な姿勢に疑問を抱くことになる。もっとも象徴的なのはラストシーンだろう。ビン・ラーディンの殺害に成功し、マヤはアメリカへ帰る軍の輸送機内にいる。広大な機内に所在なく佇む彼女の姿が、ロングショットで小さく映し出される。そう、彼女は英雄などではないのだ。パイロットにどこへ行きたいか問われても、マヤには返す言葉がない。また『ゼロ・ダーク・サーティ』は、主人公を取り巻く環境をマクロに捉えている点でも、『アメリカン・スナイパー』と異なる。マヤは上司や本国の無理解と身勝手に翻弄されているし、最終的には潜伏先への攻撃許可を求め、自ら政府の説得に動く。ここには社会も政治(駆け引き)もあるのだ。このように『ゼロ・ダーク・サーティ』という補助線を引いてみると、改めて『アメリカン・スナイパー』の異様さが際立ってはこないか。見えないこと、留まること、上から語らないこと。抑制された脚色には、もはや潔癖さすら感じられる。

アメリカン・スナイパー (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

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岩松了作・サンプル(2015)『蒲団と達磨』

岩松了による岸田賞受賞作。上演は実に二十七年ぶりだという。不明を恥じなくてはならないが、今回の舞台を観るまで、私は岩松氏のことをまったく知らなかった。事前に予習しておこうと思いネットで検索をかけると、岩松氏と、演出を手がけた松井周氏の対談記事が見つかった。この顔にはどこかで見覚えがある……。やや間を置いてピンときた。そう、ドラマ『最後から二番目の恋』である。長倉家の長女・典子(飯島直子)が出会い系サイトで若い男と知り合うのだが、その男の父親役が岩松氏だったのだ。けっこうひどい役。息子はまだ若いし将来もある。それよりも、どうです? ここはひとつ私と。ホテルの部屋はもう取ってありますから、みたいな。覚えていたのは、今にも舌なめずりが聞こえそうな下卑た笑い顔の印象が、とにかく強烈だったからだろう。不思議なもので、いざ舞台を観てみると、そのときのイメージと氏の戯曲はそれほど隔たっていなかったのだとわかる。『蒲団と達磨』では、三組の男女の行き違いが描かれる。夫と妻(春樹と雪子)、妻の弟とその妻(和也と時枝)、夫の妹と知人(久子とコンちゃん)のそれである。雪子は家とは別に部屋を借りようとしている。春樹は夫婦の性交渉に不満があるようなのだが、体裁を気にしてかそれをハッキリとは口にできずにいる。そうした関係性を表しているのが、春樹の蒲団の下に隠されたポルノ雑誌と手鏡だろう。何もそんな場所に隠さなくても……と考えてしまいそうになるが、事実は春樹が、そこにしか隠せなかったということではないか。秘事の隠匿に大したバリエーションなどないのである。さて、和也が時枝を襲うとき、同じようにコンちゃんが久子を襲うときの計二回、春樹の蒲団の下が暴かれる。そこで彼らは他人のリビドー(ポルノ雑誌)とエゴイズム(手鏡)に期せずして遭遇し、反射されて自身の姿にも直面することになる。ここで振り返ってみよう。『最後から~』において典子は、出会い系サイトの利用という直接的には性交渉(それも手軽で都合の良い)を求める振る舞いをしておきながら、若い男の父親=岩松了の、剥き出しのリビドーとエゴイズムを目の当たりにして、思わずその場を立ち去ったのだった。驚くほどに『蒲団と達磨』と地続きではないか? 具体的に誰なのかはわからないが、あのドラマに岩松氏をキャスティングした人物は、間違いなく『蒲団と達磨』を読んでいたのだ。