SUPPING CULTURE REVIEW

批評同人誌『PENETRA(ペネトラ)』のメンバー。ジャンルフリー、ネタバレありです。https://penetra.stores.jp

ヴァージンからスーサイド アンドリュー・ニコルの栄光と自滅

ずっとアンドリュー・ニコルについて書きたいと思っていた。大学に入りたての頃、暇に飽かせて手当り次第に映画を借りた。当時観た作品の内容はもうほとんど忘れてしまったが、『ガタカ』と『トゥルーマン・ショー』だけは、いつまでも頭の片隅に残っていた。今だって好きな映画を挙げろと言われれば、そのふたつは間違いなく候補になる。けれど、その後のアンドリュー・ニコルはあまりパッとしなかった。『ロード・オブ・ウォー』も『TIME/タイム』も、どこかしっくりこない。その印象は『ザ・ホスト 美しき侵略者』にいたって決定的となる。ニコルはいつの間にかボロボロになっていた。タオルを投げろ、誰かやつをリングから降ろすんだ。
去る3月に『トゥルーマン・ショー』がブルーレイ化され、数年ぶりに作品を観返す機会があった。大胆かつ緻密な設定、辛辣なユーモア、ジム・キャリーの好演。やはり、どれを取っても傑作の名に恥じない出来栄えである。だからこそ、こう問わずにはいられなかった。ニコルはどこで道を誤ったのか? それは避けがたいことだったのか?
本稿はひとりの映画作家をめぐる評伝である。ニコルの作品は大まかに、前期=90年代、中期=00年代、後期=10年代と区分できる。『トゥルーマン・ショー』(98)と『ガタカ』(97)が前期を成し、この時代のアンドリュー・ニコルは、人間の可能性を称えたピュアなヒューマニストである。中期の『シモーヌ』(02)では、彼の皮肉屋気質が強まり、自身に対しても批判的な目を向けるようになる。これをニコルのアイロニスト期とする。後期の『TIME/タイム』(11)になると、彼は開き直ったように、ハリウッド・マナーに迎合しはじめる。従来のモチーフを踏襲してはいるものの、『タイム』は明らかなセルアウトであり、自作の劣化コピーだった。クリエイティビティ喪失の危機。その懸念は『ザ・ホスト 美しき侵略者』(13)において、考えうる限り最悪のかたちで現実のものとなる。ニコルにとって『ザ・ホスト』の公開は、築き上げたフィルモグラフィーを台無しにする自殺行為に等しかった。躊躇なくキャリアを傷つける姿は、もはやサディストにみえてくる。彼の足跡はあまりにも興味深い。ジョー・ストラマーなら、一度時代をつくったやつに二度目はないと括るだろう。映画作家としての再起は難しいかもしれないが、心配は要らない。彼のキャリアの行く末が、作品以上に、私たちを楽しませてくれるだろうから。アンドリュー・ニコルの監督・脚本最新作は、米国では今年5月15日に公開される。

(中略)

シモーヌ(02)
そんなニコルの作風が一変したのが『シモーヌ』である。それまでのヒューマニスト然とした姿は消え失せる。ここにあるのは、皮肉、皮肉の連続だ。映画監督のヴィクター・タランスキー(アル・パチーノ)は行き詰まっていた。監督の立場は世間が想像するほど立派なものではなく、人気女優のご機嫌取りに奔走することもしばしば。映画の命運を握る有力なプロデューサーは離婚した妻でもあり、いつまでも芸術主義的な映画ばかり撮っているわけにはいかないと彼をたしなめる。容易に連想されるように、タランスキーとはクエンティン・タランティーノ、そしてアンドレイ・タルコフスキーである。そんな彼の苦境を救ったのは、とある知人の遺した画期的なCGプログラムだった。初音ミクがより人間に近づいたものと思えばわかりやすいだろうか。タランスキーはこのプログラムを用いて、現実には存在しない、しかし完全無欠な女優をつくり上げる。彼はプログラムの起動コマンド(=
simulation one)にあやかり、彼女をシモーヌと名付けて世に問うのだった。彼女の主演映画は立て続けに大ヒットを記録。タランスキーの名声も高まるが、シモーヌの圧倒的な人気と存在感は次第に彼自身を脅かし……。「シモーヌなどいない、シモーヌの正体は俺だ。不可能を成し遂げ(中略)俺がシモーヌを世に出した(I made Simone)」。進退窮まった彼は元妻にそう真実を告げるが、彼女の答えは「ヴィクター、シモーヌがあなたを世に出したのよ(She made you)」とつれなかった。タランスキーはシモーヌ・プログラムの破壊を決意する。
ニコルはハリウッドにまつわるほとんど全てを皮肉っているようにみえる。傲岸不遜なスター女優、テクノロジーに依存する映画監督、まがい物でつくられた作品を熱狂的に迎える観客たち。こうした冷笑的な態度は、おそらく初期二作品の現場経験で彼に培われたものだろう。その醒めた視線はニコル本人にも向けられている。『トゥルーマン・ショー』と『ガタカ』において、主人公たちは、巨大メディアに管理された空間、遺伝子工学により排除された階級での生活を余儀なくされていた。彼らは被害者として描かれていたのだ。ところが、『シモーヌ』のタランスキーは、テクノロジーを駆使して大衆を欺く側の人間であり、『トゥルーマン・ショー』でいうクリストフのポジションに位置している。クリストフ(Christof)が神の代理表象だったように、タランスキーもヴィクター(Victor)=征服者というファーストネームをまとっている。つまり、初期二作品と『シモーヌ』では、フォーカスする人物の立場が逆になっているのである。ニコルは、かつて二項対立を構え攻撃していた側にタランスキーを置く。もちろんタランスキーは、ニコルの自画像でもあるはずだ。当初の彼はヒューマニズムを標榜する作家だったかもしれない。だが、ハリウッドの現場を目の当たりにし(想像を超えたしがらみや醜態に溢れていることだろう)、自身もその中にまんまと飲み込まれそうになっている。彼が属すのは、ヒューマニズムなど方便にすぎない業界なのである。そこへ発想の転換が訪れる。ならばそれを題材に撮り、笑い飛ばしてしまえばいいのではないか? 行き詰まったら目についたものに飛びついてやれ。作家性なんぞ知ったことか。そんなものは後から勝手についてくる—。さて『シモーヌ』は、次回作への予告とも取れるシークエンスで幕を閉じる。ニュースキャスターと会話するシモーヌ。「今後は政治の世界を目指すつもりなの(中略)この子が私にそう決意させたの(中略)ヴィクターも私もこの子のため、世界の将来が心配なの。そうよね? ヴィクター」

⇒全文は2015年5月4日(月・祝)の第二十回文学フリマで販売した批評同人誌『ペネトラ』第6号に掲載しました。ご来店、ご購入いただいた皆様、ありがとうございました。

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