SUPPING CULTURE REVIEW

批評同人誌『PENETRA(ペネトラ)』のメンバー。ジャンルフリー、ネタバレありです。https://penetra.stores.jp

いろいろ年間ベスト(17件)

「98年」から遠く離れて ねごと『VISION』が示す到達点

2015年がもうすぐ終わろうとしている。リアルタイムの音楽を追いかけるリスナーにとって、年末年始はひときわ慌ただしい季節だ。音楽誌やブログで年間ベストチャートの類が次々に発表されるからである。思わぬ拾い物に口もとがほころぶ一方、欲しいものを端から買っていけばまたたく間に財布は悲鳴を上げる。かくして、無数のチャートと許される予算とを両睨みしながら、あれこれと考えをめぐらせることになる。今年もまたそんなシーズンが巡ってこようとしている。ここではインディーロック、すなわち商業性よりも自主性を、伝統よりも試行錯誤を重んじるロックミュージックにスポットを当ててみよう。2015年におけるインディー界の顔役として、多くの人がまず思い浮かべるのはcero(セロ)ではないか。コンテンポラリー・エキゾチカ・ロック・オーケストラを自称し、ヘルシーでトロピカルな音楽を鳴らしてきた彼らは、5月にリリースしたアルバム『Obscure Ride』で目を見張る変貌を遂げる。ブラックミュージックの意匠を巧みに織り込みつつ、ポップソングとしても高水準のクオリティを保つという理想的なバランスが、アルバムトータルで成立していた。そこには毎日でも聴きたくなる中毒性があり、繰り返しにびくともしない耐久性があった。3人組という共通点があるせいか、彼らにはどこかフィッシュマンズを思わせるところがある。『空中キャンプ』がリリースされた年もきっと随分騒がれたんだろうな、などと考えてしまうのだ。晴天のフジロックで彼らのライブを観ながら、「男達の別れ」に居合わせたオーディエンスの気持ちを想像した。歴史に立ち会うということ。こんな風に2015年を彼らの年と括ることに何ら異論はない。ただ、この話には続きがある。筆者が今年、『Obscure Ride』以上に聴き込んだアルバムが一枚だけあるのだ。『VISION』というタイトルのその作品は、堅実なセールスを確保したものの、批評の文脈で目覚ましいリアクションを得たとは言い難い。友人と話題にすることもついぞなかった。それでも『VISION』は、一年を通じて筆者の耳をジャックし続けている。なぜこれほどまでに惹かれてしまったのか? ようやく熱が収まってきた今、思うところがいくつかある。少しだけ遠回りをしながら進めてみよう。かつて音楽誌・スヌーザーは「『98年の世代』、以前・以後」という特集を組んだ(2002年4月号)。ここでいう「98年の世代」とは、1998年前後に活動をスタートさせたアーティスト群のことを指す。具体的には、このタイミングで新作リリースが重なったくるりナンバーガールスーパーカーらの名前が挙げられている。編集長の田中宗一郎は次のように述べている。

 

「わかりやすいのはスーパーカーだよね。『Futurama』の時期に、チャートに反映されるようなポップ・ミュージックの価値観の外側に、トランスっていうオルタナティヴな指針を見出した(中略)ナンバーガールには、元々、ハードコアっていうローカリティが備わってる。くるりの場合は、メンタリティ的に、ポップ・ミュージックではない周縁的な音楽とかに偏愛がある」(80頁)

 

彼らはスヌーザー誌が好むインディー性をまとったアーティストであり、そのインディー性はおおむね、(1)ジャンル的な折衷性・多様性、(2)過去の音楽史に対する意識的な参照、と解釈できる。スヌーザーが前提とするのは、それらの特徴が、グローバルな音楽産業資本や内向きな「Jポップ」とコントラストを成すという構図である。タームとしての「98年の世代」はそれ以降の号でも登場し、直近では田中がくるりのアルバムに寄せたライナーノーツで、より明確に概念化されている。

 

「当時いまだ10代だった七尾旅人の1stアルバムにジョン・コルトレーンマーヴィン・ゲイからの引用を発見した時の興奮は今でも忘れられません。(中略)彼らの共通点と言えば、積極的に過去の音楽を参照しようとするアティチュード。乱暴に言えば、そういうことになります」(「くるりの一回転」)

 

1985年生まれの筆者は、ポップミュージックの魔法がもっともヴィヴィッドにはたらくであろう10代を、スヌーザー誌の圧倒的な影響のもとで過ごした。それは田中自身がのちに、「読者から一番キレキレだと思われてた」と振り返った時期でもある。2000年の年間ベストアルバム上位に、『KID A』を差し置いて、田中フミヤ、グリーンデイ、ムーディーマンが並んでいたときの衝撃は忘れられない。そんなわけだから、徐々に本誌を読む頻度が減っていった後でも、(1)や(2)を優れた音楽の判断基準とする捉え方は、バックボーンに抜きがたく残った。おそらくは同世代の多くがそうだったのと同じように。スヌーザー誌と距離を置いて久しい頃、ネット上のまとめ記事でねごとの存在を知った。2010年前後には相対性理論の人気が高まり、主としてやくしまるえつこへの注目から、「ポスト相対性理論」の担い手となるガールズバンドを発掘しようという動きが広がりをみせていた。記事に紹介されたいくつかのバンド、パスピエやさよならポニーテールらのアルバムを手に取ってみたところ、その中の一枚にねごとのセカンド『5』があった。冒頭の〔greatwall〕でいきなり、ダンスミュージックの要素に引っかかりを覚える。シンプルな四つ打ちのキックに、音数をひとつずつ乗せていくやり方。フォーマットはポップソングだが、音を抜き差しするタイミングにテクノのフィーリングがある。独特のプロダクションもそうした印象に寄与していた。たとえばM2〔トレモロ〕やM3〔sharp#〕のコーラス部分では、太めのベースとノイジーなギターが何度も重なり合うが、楽器ごとの分離が非常にクリアなためにまったく耳障りに聞こえない。結果として音の位相は、ロックというよりクラブミュージックに近い仕上がりになっている。「ガールズバンド」の平均像を超えて独自色を打ち出そうという意欲が伝わってくる内容だ。彼女たちのバックグラウンドに興味が湧いた。ねごとがデビューするきっかけとなったのは、「閃光ライオット」というオーディションを兼ねて出演者を10代に限定したロックフェスティバルである。ソニーミュージックやauが主催するこのフェスの第1回で、彼女たちは審査員特別賞に選ばれ、ソニー系のキューンミュージック(Ki/oon)と契約を結ぶ。レーベルがキューンに決まったことは、ねごとのキャリアに一定の方向性を与えた。キューンはソニー系の中でもインディー色の強いレーベルであり、電気グルーヴギターウルフチャットモンチーを擁する。キューンがねごとと契約する際にイメージしていたのが、チャットモンチー=ガールズバンドの系譜だったことは想像に難くない。ここで注目したいのは、「98年の世代」の代表格・スーパーカーがかつてキューンに在籍していた事実である。スーパーカー本体は2005年に解散したが、ギタリストで作詞担当だったいしわたり淳治は、その後もプロデュース業や作詞提供を通じてレーベルと密接に関わっている。裏方としてチャットモンチーを世に出したいしわたりは、2010年代に入りいっそう活動の幅を広げる。ねごとのデビューはちょうどこの時期にあたり、いしわたりによる彼女たちのプロデュースは自然な流れだったと言えよう。こう書くとレーベルやプロデューサーの思惑でアーティストの路線が決められたように聞こえるかもしれないが、そもそもねごとは「98年の世代」を音楽的なルーツにもっていた。ひらがな3文字しばりで選んだというバンド名は明らかにくるりを意識したものだし、バンドロゴのギザギザフォントはナンバーガールへのオマージュに他ならない。それ以外に影響を受けたミュージシャンとして、フィッシュマンズスピッツレディオヘッドニルヴァーナソニックユース、トーキングヘッズを挙げている。インディーロックやオルタナ、ポストパンクの遺伝子。そうした下地にいしわたりのプロデュースが加わり、初期ねごとの基本形が固まった。先輩格のチャットモンチーとはっきり違うのはキーボードの配置で、これがのちに開花する豊富なバラエティーの伏線となる。ファーストシングルの〔カロン〕がチャート11位に入るなど順調な滑り出しをみせたねごとだったが、メンバーはしだいに行き詰まりを感じるようになり、セカンドアルバムの前後でバンドは危機的な状況を迎える。そう聞けば、『5』の隙のない神経質なプロダクションや抑制的なヴォーカルに、どことなく息苦しさを感じてしまうのも確かである。しかし、紆余曲折を経て新作を完成させた今となっては、すべてが必要なステップだったとメンバーは捉えている。『5』から『VISION』のあいだに何が起きていたのか。手がかりとなるのは、バンドのブレーン・沙田瑞紀(ますだみずき・G)による、全国ツアーでのMCだ。長くなるが引用する。

 

「(『VISION』というアルバムは)いろんな音楽の可能性を追いかけて、一曲一曲作っていったんです。今、フェスとかすごい多いじゃないですか、ロックフェス。そういうフェスとかでも盛り上がってほしいけど、音楽をもっとこう深く、掘り下げたくなるような楽曲になればいいなって、聴いたみんながね。ねごとはこういう音だしてるから、こういうアーティストが好きなのかなとかさ、掘ってほしいな。そうやって音楽をみんなでワッショイってしたいわけです、そういうアルバムなんです。イエーイっていう(縦の)ノリ方は、もちろんみんなできるじゃないですか。でもこう、フラフラと身体を動かしても、これはノッてるわけですよ。なんか、そういうことをね、みんなもチャレンジしてくれたらさ、イイじゃんって、思って16本やってきました。みんなが自由に踊って、そうやってどんどんつながっていけたらいいなって、思いました、思ってます」(『“VISION” TOUR 2015』)

 

『5』期のインタビューにおいて彼女たちは、ロックフェスや学園祭の現場で即効性をもつことを意識して制作に臨んだと語っていた。ライブ機会の増加がそうした発想につながったのだろうが、結果的にこの判断がバンドにストレスをもたらす。奔放に音楽を吸収してきたねごとにとって、フェス対応の「機能的な」楽曲を作らねばならないというプレッシャーは、想像以上に窮屈に感じられたことだろう。沙田のMCは、フェス志向のロックや縦ノリ一辺倒への違和感を表現したものと言える。こうして『5』に対する反動としての『VISION』、というストーリーがみえてくるのだが、『VISION』はそれにとどまる作品ではない。ファーストの『ex Negoto』が音楽をつくる楽しさだけで出来上がったアルバムだとすれば、『VISION』の制作は沙田が言うように、理想とする音楽を「自覚的に追求した」プロセスとしてある。収録された楽曲の多彩なバリエーションから伺えるように、従来は必ずしも作品に反映されていなかったメンバーの音楽的嗜好がダイレクトに投入されている。これはすぐれて「98年の世代」的な方法であると言ってよい。そう、「(2)過去の音楽史に対する意識的な参照」。だからこそ沙田は、アルバムの仕上がりに十分な自信をもちながらも、自分たちを経由してオーディエンスが偉大なアーカイヴへと進んで(=掘って)いってくれたらとても嬉しいと語りかけている。ここまでが筆者の考える『VISION』の全体像である。個別の楽曲にもフォーカスしてみよう。オープニングのすぐ後に配され、アルバムの印象を決定づけるのがM2〔黄昏のラプソディ〕だ。藤咲祐の5弦ジャズベースがファンキーにぐいぐい引っ張る。リズムはバックビート。縦ノリではない横のグルーヴ。そこへ蒼山幸子の、やはりジャジーなピアノが重なり、ブリッジでは藤咲が、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリーを憑依させたようなプレイで盛り上がりをつくる。ねごとのレパートリーにはなかったタイプの楽曲だ。シングルカットしたこの曲がライブで好評を得たことにより、メンバーは『VISION』の方向性に自信を深めた。M3〔endless〕は沙田がアンダーワールドに影響を受けて作ったという。長尺になりがちな彼らのトラックの中にあって、起承転結をコンパクトに凝縮した〔Push Upstairs〕あたりが参照点となるだろうか。といって初手から四つ打ちにはしていないのがポイントで、後半のブレイクに向けてメリハリをつけている。M7〔GREAT CITY KIDS〕では、レッド・ツェッペリン直系のギターリフに、プリ・スクール〔FAT MAN THIN MAN〕のキーボードが絡みつく。M8〔透明な魚〕はブロック・パーティ〔Banquet〕のねごと的展開、M13〔憧憬〕はザ・ヴァインズ〔F.T.W.〕の本歌取りであり、2000年代に勃興したロックンロール〜ポストパンク・リヴァイヴァルに対しても目配りが利いていると言えよう。このように、メンバーによる「(2)過去の音楽史に対する意識的な参照」が、自然な形で「(1)ジャンル的な折衷性・多様性」に結実して『VISION』は完成をみた。かつて「98年の世代」にシンパシーを抱いていたリスナーと新世代のバンドは、こんなミッシング・リンクでつながっている。『VISION』は、表層的にはまったく別物に聞こえるceroの『Obscure Ride』とも、ある意味では通じ合っていたのだと言えよう。引用と折衷。2016年も良い年になりますように。

⇒2015年11月23日(月・祝)の第二十一回文学フリマで販売した批評同人誌『ペネトラ』第7号に掲載しました。『ペネトラ』はこちらのサイトでもお求めいただけます。

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アレクセイ・ゲルマン(2013)『神々のたそがれ』

ロシア人監督による一七七分間のモノクロSF映画、と聞いて思わず身構えてしまった。途方もなく難解で、救いがたく退屈な作品ではないのか。いたずらに観念的だったりはしないかと。そうした懸念の半分は当たっていて、半分は外れていたと言える。『神々のたそがれ』は決してわかりやすい作品ではない。舞台となる世界の説明は最小限で不親切きわまりなく、三時間弱のうちほとんどのあいだ、物語がどこへ向かっているのか、いま映し出されているシーンがいかなる場面なのか、十分に掴めないままスクリーンと向き合うことになる。一応、あらすじらしきものはある。未来の地球人は、別の惑星に生息する、人間と瓜二つの住民たちを発見する。地球と異なるのは、その社会の発展が西欧近代基準でいう「中世」の段階にとどまっているということ。ルネサンスの兆しはいっこうになく、冷酷な独裁支配が到来しようとしている。地球からの調査団は身分を偽って惑星に潜伏している。さて、あらかじめ右のような筋を頭に入れておいたとしても、映画に入り込みにくい状況はさほど変わらない。シーンからシーンへのつながりに脈絡はなく、モノクロのせいか人物の判別もつきにくい。必要以上にセリフで語らないのが映画というメディアのセオリーとはいえ、度が過ぎるのではないか。答えはひとつしかないだろう。頑ななまでに観客の没入を拒む態度は、ゲルマン監督がつよく意図したものなのだ。『神々のたそがれ』を語るとき、人はスクリーンにあらわれる過激な表象に気をとられがちになる。汚泥、糞尿、殺戮、内臓。それこそがこの作品の醍醐味なのだと。はたしてそうだろうか? 私の印象は異なる。そうした過剰さに溢れながらも、『神々のたそがれ』はどこまでも退屈な映画だった。その大いなる倦怠の前では、残虐非道も不条理もすべてが説得力を失っていった。居眠りさえしてしまった。だが実のところ、こうした反応こそゲルマン監督の予期したものではなかったか。わけのわからないことの連続、終わりのみえない冗長に、人間は耐えられない。どれほどの暴虐であっても、いつかは目をつぶってしまう。二十世紀ソビエトという全体主義社会を生き延びたゲルマンは、何度となくそんな光景を目にしてきたはずだ。いま『神々のたそがれ』にまどろむ観客は、かの歴史を知らず知らずのうちに追体験している。この作品はそうした意味において、観念的というより身体に作用する映画であった。予想の半分は、みごとに外れた。

⇒『神々のたそがれ』のクロスレビュー4本が『ペネトラ』第7号に掲載されています。バックナンバーはこちらのサイトでお求めいただけます。

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『おとなもこどもも考える ここはだれの場所?』@東京都現代美術館

美術家・会田誠と彼の家族によるユニット「会田家」の作品が撤去要請を受けた騒動で、一躍耳目を引くことになった企画展である。美術館側は公式見解を示していないが、七月二十五日付の朝日新聞デジタルによれば「撤去は要請していないと話している」という。一方の会田氏は自身のタンブラーに経緯をまとめ、「出品作のうち2作品に対する撤去要請がありました」と述べている。双方の言い分に違いはあれど、主催者が展示内容の修正を試みたことは明らか。渦中の作品はいったいどれほど過激だったのだろう? 実際に足を運んでみた。結論から言えば、ごくふつうの展示である。ひとつめの「檄」は、その名のとおり檄文調で教育行政に異を唱えた作品。「特別支援教育がただの隔離政策みたいになってる。あの教室はまるでアルカトラズ」というフレーズにハッとさせられるが(筆者注:アルカトラズは米カルフォルニア州に位置する、かつて刑務所として用いられた小島)、多様性擁護やカリキュラムへの批判は、ある意味穏当というか、ベタでさえある。冒頭の「もっと教師を増やせ」にいたっては空文の域。つまり、重要なのはメッセージの中身ではなく、形式である。「こういうのもアリなんだ」ということ。世間や校内のノリでは「ナシ」かもしれないけれど、美術館はこうした表現を肯定しているのだと、来場したこどもたちは知る。状況を斜に眺める人間がいて、そんな視点を許容する空間がある。「檄」はほんらい、それだけのことを伝える作品だった。だからこそ、作品を「事件」というインスタレーションに変えてしまった館側の対応はグロテスクに映る。問題はいつだって想像力の欠如だ。今回のケースで言えば、撤去や改変を決定した場合、どういったリアクションが想定されるのかということ。確認したように「檄」は、なんらタブーを含んでいない。そうした水準の作品に介入するとき、会田氏側の反発はまず想定の範囲内だろう。仮に会田氏が甘受しようとも、衆人環視のもと公開された展示なのだから、炎上は既定路線。どうみても館側に勝ち目はない。えっと、もしかしてバカなの? と勢い切り捨てたくなる気持ちを抑えて、イン・ゼア・シューズ。彼らの立場に立ってみる。騒動の発端とされる「東京都庁のしかるべき部署からの要請」にどう応えたらよいのか。

【A】そのまま受け入れる。
【B】どうにか言い訳して断る。

いきなり【A】ってことはないと思う。メンツを守りたいし、作家との信頼関係だってある。彼らの初動は十中八九【B】で、「そんなことしたら炎上します。もっとわかりやすくヤバい案件ならともかく、これで撤去はリスクでかすぎます」って泣訴しているはずなんだよね。で、保守的な都の職員もいったんは引き下がる。しかし現実には、会田氏のもとへ撤去の連絡がいってしまった。ここにパズルが残る。都にそもそもの圧力をかけた先が、トラブル上等で強制撤去を指示。いかにもって感じでつまらないけれど、納得できなくはない。いまひとつの可能性が、館側の「死んだふり作戦」だ。怪しまれないよう一応の抵抗はしたうえで、しおらしくプレッシャーに屈しておく。反発と炎上はもちろん織り込み済み。というかむしろ、それを切望している。肉を切らせて骨を断つ。自分たちの信用と引き換えに、腐った美術館行政に一石を投じる。ザッツ・リアルタイム・インスタレーション。会田家も当然グル。こんな旨い話に乗らない手はない。やがて真実が明らかとなり、作品のクレジットはおごそかに訂正される。「−−社会はだれのもの?」会田家・フィーチャリング・東京都現代美術館! そ〜うだったらいいのにな、と妄言を放りながら帰路につく。我々は今日、猛烈に気の滅入る社会に暮らしている。

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イービャオ・小山ゆうじろう(2014〜)『とんかつDJアゲ太郎』

ひとくちにDJといっても連想するものは人によってバラバラ。ラジオの司会者に『フルハウス』の子役、グローバルにメジャーな株価指数を算出している通信社もあれば、斯界では「鉄道ダイヤ情報」という月刊誌が有名だったりするらしい(表紙には太字でDJのロゴ・第1巻85頁参照)。『とんかつDJアゲ太郎』に登場するのは、クラブやイベントでレコードをセレクトしミックスするほうのDJである。最初にタイトルを耳にしたときは、それがとんかつにどう結びつくのかと首をひねったものの、「だからさ、とんかつもDJもアゲるって意味では同じなんだよ。そういうマンガだから。とにかく読めばわかるから」という口コミは妙な説得力を帯びていた。なるほど手にとってみれば、これはとんかつマンガでありながら紛れもなくDJマンガであり、何よりふたつの世界を往来する勝又揚太郎(=アゲ太郎)の物語となっている。異質な素材をミックスして掛け合わせるやり方じたい、DJマナーに則っているように思えて面白い。クラブカルチャーには、その醍醐味が他のメディアを通じては伝わりくいという難しさがある。本作に出てくる言葉を借りるなら、会場でしかわかりえない「バイブス(Vibes)」があるからだ。もちろん、文章でもってバイブスに迫ろうという試みはこれまでにも行われてきた。鶴見済による『檻のなかのダンス』(98)、湯山玲子による『クラブカルチャー』(05)といった著作は、世界中のフロアの熱量をみごとに捉えたドキュメントだった。ただし、クラブに一度も行ったことのない人や思い入れのない人が、いきなり『クラブカルチャー』を読むのかと言うと、微妙なところではある。クラブについての言説の多くが、愛好家の内部にとどまってしまうもどかしさ。そこで『とんかつDJ』の斬新性がみえてくる。掲載誌の「週刊ジャンプ+」が無料のウェブ配信をベースとする媒体という特性もさることながら、ジャンプ読者に親しみのある「友情・努力・勝利」をきっちり盛り込んでいるために、幅広い層へ届きやすい仕上がりとなっているのだ。作画担当の小山ゆうじろうはカバー見返しで次のように言う。「題材は大人向けですが、小中学生たちにも、背伸びをして読んでほしいなぁ、ともちょっとだけ思っています。こっそり読まれてたりしたら最高」と。第36皿(話)は、作者の願いをそのまま具現化したようなエピソード。地方から出てきて道に迷った中学生に、アゲ太郎は渋谷界隈を案内し、クラブでDJを披露する。感銘を受けたふたりはやがてミュージシャンに……という一話である。これ、ホントに起こるかもしれない。「アゲ太郎にヤラれてDJに興味もったんです」って。2巻まで単行本で読んだんだけど、思わず最新話まで追いかけてしまいました(無料だよ!)。

とんかつDJアゲ太郎 1 (ジャンプコミックス)

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