SUPPING CULTURE REVIEW

批評同人誌『PENETRA(ペネトラ)』のメンバー。ジャンルフリー、ネタバレありです。https://penetra.stores.jp

アレクセイ・ゲルマン(2013)『神々のたそがれ』

ロシア人監督による一七七分間のモノクロSF映画、と聞いて思わず身構えてしまった。途方もなく難解で、救いがたく退屈な作品ではないのか。いたずらに観念的だったりはしないかと。そうした懸念の半分は当たっていて、半分は外れていたと言える。『神々のたそがれ』は決してわかりやすい作品ではない。舞台となる世界の説明は最小限で不親切きわまりなく、三時間弱のうちほとんどのあいだ、物語がどこへ向かっているのか、いま映し出されているシーンがいかなる場面なのか、十分に掴めないままスクリーンと向き合うことになる。一応、あらすじらしきものはある。未来の地球人は、別の惑星に生息する、人間と瓜二つの住民たちを発見する。地球と異なるのは、その社会の発展が西欧近代基準でいう「中世」の段階にとどまっているということ。ルネサンスの兆しはいっこうになく、冷酷な独裁支配が到来しようとしている。地球からの調査団は身分を偽って惑星に潜伏している。さて、あらかじめ右のような筋を頭に入れておいたとしても、映画に入り込みにくい状況はさほど変わらない。シーンからシーンへのつながりに脈絡はなく、モノクロのせいか人物の判別もつきにくい。必要以上にセリフで語らないのが映画というメディアのセオリーとはいえ、度が過ぎるのではないか。答えはひとつしかないだろう。頑ななまでに観客の没入を拒む態度は、ゲルマン監督がつよく意図したものなのだ。『神々のたそがれ』を語るとき、人はスクリーンにあらわれる過激な表象に気をとられがちになる。汚泥、糞尿、殺戮、内臓。それこそがこの作品の醍醐味なのだと。はたしてそうだろうか? 私の印象は異なる。そうした過剰さに溢れながらも、『神々のたそがれ』はどこまでも退屈な映画だった。その大いなる倦怠の前では、残虐非道も不条理もすべてが説得力を失っていった。居眠りさえしてしまった。だが実のところ、こうした反応こそゲルマン監督の予期したものではなかったか。わけのわからないことの連続、終わりのみえない冗長に、人間は耐えられない。どれほどの暴虐であっても、いつかは目をつぶってしまう。二十世紀ソビエトという全体主義社会を生き延びたゲルマンは、何度となくそんな光景を目にしてきたはずだ。いま『神々のたそがれ』にまどろむ観客は、かの歴史を知らず知らずのうちに追体験している。この作品はそうした意味において、観念的というより身体に作用する映画であった。予想の半分は、みごとに外れた。

⇒『神々のたそがれ』のクロスレビュー4本が『ペネトラ』第7号に掲載されています。バックナンバーはこちらのサイトでお求めいただけます。

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