SUPPING CULTURE REVIEW

批評同人誌『PENETRA(ペネトラ)』のメンバー。ジャンルフリー、ネタバレありです。https://penetra.stores.jp

『おとなもこどもも考える ここはだれの場所?』@東京都現代美術館

美術家・会田誠と彼の家族によるユニット「会田家」の作品が撤去要請を受けた騒動で、一躍耳目を引くことになった企画展である。美術館側は公式見解を示していないが、七月二十五日付の朝日新聞デジタルによれば「撤去は要請していないと話している」という。一方の会田氏は自身のタンブラーに経緯をまとめ、「出品作のうち2作品に対する撤去要請がありました」と述べている。双方の言い分に違いはあれど、主催者が展示内容の修正を試みたことは明らか。渦中の作品はいったいどれほど過激だったのだろう? 実際に足を運んでみた。結論から言えば、ごくふつうの展示である。ひとつめの「檄」は、その名のとおり檄文調で教育行政に異を唱えた作品。「特別支援教育がただの隔離政策みたいになってる。あの教室はまるでアルカトラズ」というフレーズにハッとさせられるが(筆者注:アルカトラズは米カルフォルニア州に位置する、かつて刑務所として用いられた小島)、多様性擁護やカリキュラムへの批判は、ある意味穏当というか、ベタでさえある。冒頭の「もっと教師を増やせ」にいたっては空文の域。つまり、重要なのはメッセージの中身ではなく、形式である。「こういうのもアリなんだ」ということ。世間や校内のノリでは「ナシ」かもしれないけれど、美術館はこうした表現を肯定しているのだと、来場したこどもたちは知る。状況を斜に眺める人間がいて、そんな視点を許容する空間がある。「檄」はほんらい、それだけのことを伝える作品だった。だからこそ、作品を「事件」というインスタレーションに変えてしまった館側の対応はグロテスクに映る。問題はいつだって想像力の欠如だ。今回のケースで言えば、撤去や改変を決定した場合、どういったリアクションが想定されるのかということ。確認したように「檄」は、なんらタブーを含んでいない。そうした水準の作品に介入するとき、会田氏側の反発はまず想定の範囲内だろう。仮に会田氏が甘受しようとも、衆人環視のもと公開された展示なのだから、炎上は既定路線。どうみても館側に勝ち目はない。えっと、もしかしてバカなの? と勢い切り捨てたくなる気持ちを抑えて、イン・ゼア・シューズ。彼らの立場に立ってみる。騒動の発端とされる「東京都庁のしかるべき部署からの要請」にどう応えたらよいのか。

【A】そのまま受け入れる。
【B】どうにか言い訳して断る。

いきなり【A】ってことはないと思う。メンツを守りたいし、作家との信頼関係だってある。彼らの初動は十中八九【B】で、「そんなことしたら炎上します。もっとわかりやすくヤバい案件ならともかく、これで撤去はリスクでかすぎます」って泣訴しているはずなんだよね。で、保守的な都の職員もいったんは引き下がる。しかし現実には、会田氏のもとへ撤去の連絡がいってしまった。ここにパズルが残る。都にそもそもの圧力をかけた先が、トラブル上等で強制撤去を指示。いかにもって感じでつまらないけれど、納得できなくはない。いまひとつの可能性が、館側の「死んだふり作戦」だ。怪しまれないよう一応の抵抗はしたうえで、しおらしくプレッシャーに屈しておく。反発と炎上はもちろん織り込み済み。というかむしろ、それを切望している。肉を切らせて骨を断つ。自分たちの信用と引き換えに、腐った美術館行政に一石を投じる。ザッツ・リアルタイム・インスタレーション。会田家も当然グル。こんな旨い話に乗らない手はない。やがて真実が明らかとなり、作品のクレジットはおごそかに訂正される。「−−社会はだれのもの?」会田家・フィーチャリング・東京都現代美術館! そ〜うだったらいいのにな、と妄言を放りながら帰路につく。我々は今日、猛烈に気の滅入る社会に暮らしている。

f:id:enahaka120720:20150626140702j:plain