SUPPING CULTURE REVIEW

批評同人誌『PENETRA(ペネトラ)』のメンバー。ジャンルフリー、ネタバレありです。https://penetra.stores.jp

『あ、ストレンジャー』がいざなう解釈のワンダーランド

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◆しっぽを失くしたウロボロス
マームとジプシーによる公演『あ、ストレンジャー』を吉祥寺シアターで観た。タイトルの「あ」とは、ふいに誰かがストレンジャー=よそ者=異邦人として立ち現われてくるときの驚きを示した感嘆詞「あ!」なのだろうか。それとも、ストレンジャーを形容にするには定冠詞「the」よりも不定冠詞「a=あ」のほうがふさわしいという、控えめなマニフェストなのだろうか。どこにでもいるストレンジャー。つまりあなたはストレンジャー、そして私もストレンジャー。
『あ、ストレンジャー』に登場するのはカラオケボックスではたらく、20代~40代と思われる男女五人。男性店長にバイトリーダーを務める中年女性と、三人の若いフリーターで、フリーターのうち女性二人はルームシェアしている。公演でとにかく目を惹くのが《リフレイン》と称される、マームとジプシーの作品では珍しくないようだが、ひとつのシークエンス(まとまりのある一連のシーン)を続けざまに反復させる手法だろう。といっても未体験の人にはイメージがわきにくいと思われるので、悪あがきを承知のうえ、紙上での再現に努めてみた(台詞は例であり本編とは異なる)。

 「私そんなこと本当にいいましたっけー!?」
 「ったった、たしかにあなたがそうってましたー」

      (スイッチング)

 「私そんなこと本当にいましたっけー!?」
 「ったった、たしかにあなたがそうってましたー」

      (スイッチング)

 「私そんなこと本当にいましたっけー!?」
 「ったった、たしかにあなたがそうってましたー」

      (スイッチング)

 「私そんなこと本当にいましたっけー!?」
 「ったった、たしかにあなたがそうってましたー」

ひとつのシークエンスが終わると時計回りに180°の立ち位置入替え=スイッチングが行われ、観客には、人物の周囲をぐるりとなめまわすバレットタイム(映画『マトリックス』の360°撮影を想起されたい)にも似た視覚効果がもたらされる。いうまでもなくこの効果は人力ベースであり、あえてそれを人力でする必要がどこにあるのか、という疑問がとうぜん生じてくるのだが、これついては少しあとに先送りしておこう。この《リフレイン》は強力な異化作用をもって上演にダイナミズムを与えている。英文学者の廣野由美子によると、異化作用とは「ふだん見慣れた事物から、その日常性を剥ぎ取り、新たな光を当てること(略)そのために、ある要素や属性を強調し、読者の注意を引きつけるように際立たせる」はたらきであり、「習慣化によって蝕まれてしまった生」が「このような方法で回復」されるという(*1)。もともとがマルクス主義者・ブレヒトによる言葉ということもあり、異化作用への注目はややもすると、クラシックな演劇論に回収されてしまいそうに思える。すなわち、環境にならされて本来のあり方を見失ってしまった身体に生々しい肉体性を取り戻す、といったような疎外論的・奪還論的フレームワークへの収斂。だがここで強調したいのは、異化作用がもたらす自明性の後退という側面である。《リフレイン》によって同じ場面が反復されればされるほど、そこから立ち上がる意味や価値は変質していくことになる。ひとまわり円を描いてその輪を閉じてゆくシークエンスであれば、何のフックともならずに過ぎさってしまうだろうが、《リフレイン》によって収束(場面の終了)と散逸(場面の開始)は同時に到来することになり、演者たちのやり取りはいつまでも嚥下しきれないものとして違和感をはらみ続ける。それはウロボロス(*2)が象徴するような円環的充足とはかけ離れた、居心地のわるい、解釈のオープンエンドである。視点を変えて《リフレイン》のスイッチングを真上から見おろすと、そこには、しっぽを求めてさまよい続けるウロボロスの姿があった。
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(*1)廣野由美子(2005)『批評理論入門』中央公論新社
(*2)古代の象徴のひとつで、己の尾を噛んで環となったヘビもしくは竜を図案化したもの。「死と再生」「不老不死」などの象徴。また、始まりも終わりも無い完全なものとしての象徴的意味を具える。

◆カラオケボックスにひしめくストレンジャーたち
『あ、ストレンジャー』はアルベール・カミュの小説『異邦人』を原案としており、公演の随所に設定が反映されている。老人ホーム(=養老院)で暮らす主人公の母親が死に、職場に暇乞いをするくだりは『異邦人』の冒頭とそのまま重なる。

私は主人に二日間の休暇を願い出た。こんな事情があったのでは、休暇をことわるわけにはゆかないが、彼は不満な様子だった。「私のせいではないんです」といってやったが、彼は返事をしなかった。そこで、こんなことは口にすべきではなかった、と思った。
―カミュ(1942作・1954訳)『異邦人』新潮社

『あ、ストレンジャー』では青柳いづみ演じる主人公のフリーター・むーちゃんが、バイトリーダーとちょっとした口論になる。二日間の休暇願いに対して、穴埋めパズル式にシフトを組みたてる立場のリーダーは、そもそも採用の条件が木曜日と金曜日に働けることだったではないかと原則論を持ち出して詰問する。そして、母親が死んでしまったのだ、と理由を説明するむーちゃんに対して、こう突き放すのだった。

 「だったら代わりの人をほかに見つけないとねー!」

二人のやり取りが先に述べた《リフレイン》で繰り返されるのだが、このとき私は『あ、ストレンジャー』というオープンエンドの結び目にかすかに触れた気がした。「代わりの人」とは誰か? 常識的に考えれば、それはとうぜん代わってシフトに組み込まれるバイトのことを指しているのだろう。だがはたしてそうだろうか。リーダーが言いたかったのは実のところ、母親の代わりを探してこいということではなかったか。それは電話をガチャ切りする直前の捨て台詞からもうかがわれる。

 「ああ、そうですか、お大事にー!」

お大事に? いったい何を? もう死んでいるのに? これはお悔やみでもいたわりでもなく、どこまでも「アンタの母親が生きているのか死んでいるのかもアタシにはわからないし、それは本当にどうでもいいことだ、バイトのシフトを組みかえることだけが面倒だ、だからせいぜい、お大事に」というメッセージでしかない。リーダーからすれば、むーちゃんの母親の死はシフト組み直し作業の有無を左右するいちフラグにすぎず、別のバイトに声をかけるくらいなら、むーちゃんに母親の代わりを探してもらったほうが手間が省けるというものだ。むーちゃんがそのようにしてバイトを休んだ日、彼女にも事情があると話すフリーター(女)に対して、もうひとりのフリーター(男)はこう語る。

 「でもさー、オレの母親が死んだワケじゃないもんなー」

バイト先の人間たちにとってむーちゃんの母親の死はあくまで他人事であり、代替可能なむーちゃんの仕事を代替可能な別のアルバイトが代替するひとつながりの作業にすぎない。そして安全な外野から他責的に彼らをあげつらっている私だって、同じシチュエーションに立ち会えば、いかにも面倒そうに眉をひそめるに違いないのだ。このように考えていくとき、カラオケボックスという空間は決定的な役割を果たしている。
カラオケは一般に、商業音楽のアーティストが発表した楽曲からヴォーカル部分をカットし、代わってそこへしろうとの来店客が好きなように唄を重ねていく形式をとる。アーティスト当人が楽曲に込めた思いや背景が顧みられることはあまりなく、どちらかといえば「アガる(盛り上がる)」ことや「ノレる(共有できる)」こと、すなわち機能性が重視される。カラオケボックスとは、原曲がもともと持っていたはずの心象風景や作家性が剥ぎとられ、名前のない来店客たちが好き勝手にそれを乗っとっていく場所にほかならない。アーティスト本人たちは、個別具体に求められているわけではなく、必要に応じてそのつど呼び出される代替可能なよそ者=ストレンジャーとしてある。とはいえ来店客も他人事ではない。たとえどれほど上手く歌唱しようとも、あるいは上手く歌えば歌うほど、自分がアーティスト本人には絶対なりえないという端的な事実によって、彼らも代替可能なよそ者=ストレンジャーであり続けねばならないからだ。
さらに、カラオケボックスには従業員という別種のストレンジャーが棲んでいる。酔っ払ってハメを外すみっともないサラリーマン。歌いにきたのか、それを口実に不貞行為にはげみにきたのか容易には判別しがたい男女。愉しそうにラップ合戦に興じる若者たちの集団。彼らがアガればアガるほど、その場に居合わせつつも当事者でない人間の不感症は強まっていく。このようにアーティストも来店客も従業員も、カラオケボックスでは誰もが例外なくよそ者として存在している。つまりあなたはストレンジャー、そして私もストレンジャー。

 「だったら代わりの人をほかに見つけないとねー!」

むーちゃんの母親の死はこのような巨大な代替可能性が支配する場所で取り扱われたのだった。そして、こうした一連の印象には間違いなく、《リフレイン》が関係している。《リフレイン》においては演者が交互にその立ち位置を交代するため、「私」はいつまでも「私」の位置に安住しているわけにはいかない。さっきまで「私」がいた場所に「あなた」が収まり、さっきまで「あなた」がいた場所に「私」は押し込められる。こうして登場人物の存在や挙動はとどめようもなく代替可能性に満たされてくる。さらに《リフレイン》が続いていくと、台詞の指し示す内容も変質を始める。最初は一回性と語のつながりを保っていたはずの言葉が、執拗な反復によってその確かさを失っていくのだ(あたかもカラオケのように)。行為のゲシュタルト崩壊とでもいうべきこの現象は、できごとが繰り返しによって意味や価値をすり減らしていくことを否応なく伝えてくる。《リフレイン》が人力を必要としたのは、何よりもこうした摩耗の感覚を表現するためだったのではないか。

◆ふたつの「切断」の位相
カミュの『異邦人』がそうだったように、『あ、ストレンジャー』のなかでもピストルが火を吹くことになる。しかしながら、その意味合いは同一ではない。不条理小説とされる『異邦人』において、主人公のムルソーは浜辺で小競り合いになったアラビア人を撃ち殺す。不条理とされるのは、何よりもムルソーの動機がはっきりしないからだろう。本人は認めなかったが、カミュはかつて実存主義の旗手としてサルトルと並び称される存在だった。実存主義を平易に説明できるような知識を持ち合わせていないのが悔やまれるが、ポイントは「人間かくありなん」といった先入観(本質主義的な人間観)をどうとらえるかにある。たとえば人間は邪悪で残忍な生き物だ、いいや聖なる神の子だ、人間は愛に生きる、嫉妬に焼かれる、与えられた使命を果たす。何でもかまわないが、そのようにして人間を命題のまとまりに還元していく手つきを実存主義は否定し、何者としても規定されない存在として人間をとらえる。ひとたび殺人が起きれば私たちは、自然なふるまいとして、貧乏人による金目当ての犯行だの、顔見知りによる怨恨だの痴情のもつれだのと動機を推しはかろうとする。その殺人が現実の世界で起ころうと舞台の上で起ころうと事情はさして変わらない。『異邦人』が実存主義の文脈で読まれたのは、人間の規定をたくらむ「自然なふるまい」から、徹底して距離を置いているからだろう。実際、ムルソーの殺人に筋の通った動機を求めるのは難しい。
では『あ、ストレンジャー』はどうか。たしかにここで起こる人殺しも、はっきりした動機がうかがえるわけではない。『異邦人』との違いは、そこに推定の余地が残されているか否かにある。『異邦人』が殺人と動機のあいだに横たわる連関を切断し、人間の無規定性をにじませるのに対して、『あ、ストレンジャー』にはより多くの材料が投下されている。手がかりとなるのはやはり《リフレイン》だろう。先ほど述べたように《リフレイン》は、生活における意味や価値の剥落、代替可能性の大いなる浸食として理解できる。《リフレイン》が人力で行われるのは、そこにある終わりのない摩耗や希薄化を伝えるためだった。さて、そのようなループとしての生活から抜け出すためにはどうしたらよいのだろうか。答えはアクセントをつけること。反復から反復へとつらなる日常を終わらせ、入替え可能な人物から特別な何者かへと変身すること。それを裏付けるように、ピストルが明示的に登場して以降、舞台では《リフレイン》がいっさい行われなくなる。このようにたどっていくとき『あ、ストレンジャー』における殺人の動機を、日常性と代替可能性への反発に求めることが、かろうじて可能となる。
『異邦人』の殺人はいうなれば人間性の「切断」を、一方で『あ、ストレンジャー』のそれは、日常性と代替可能性からの「切断」を示唆している。そのようにとらえれば、『あ、ストレンジャー』と対照すべき作品は原案の『異邦人』よりむしろ、映画化・舞台化もされた吉田修一の小説『パレード』のほうだろう。吉田の小説においても、ルームシェアをしている若者たちの代わり映えのない暮らしに、生々しい通り魔事件が挿しこまれる。そこに明確な動機が示されないことも『あ、ストレンジャー』と近しい。どちらも理由のわからない殺人や暴力を所在なく横たえているくせに、作中の大部分は日常生活の繰り返しに費やされている。まったく、これでは日常こそが逸脱の温床といっているに等しいではないか。

◆逸脱する自由・逸脱を強いられる不自由
不思議なもので『あ、ストレンジャー』を観てからは、同じような思いを他の作品に対しても抱くようになった。ジョナサン・フランゼンの『フリーダム』は、全米図書賞を獲得した前作『コレクションズ』から実に九年ぶりとなる新作小説。アメリカ中西部ミネソタに暮らす「白人 × リベラル × ミドルクラス」のバーグランド夫妻を中心に、彼らをとりまく家族や友人、同僚との人間模様が描かれる。

毎日朝から晩まで、まっとうに満足できる生き方をする時間はたっぷりあったのだ。が、それほどの選択の余地が、自由がありながら、どうやらパティはますます惨めになるしかなかった。そうなると筆者としては、こんなにも自由だったからこそパティは自分を憐れんだのだと結論するほかないようにも思う。

パティ・バーグランドは夫のウォルターに隠れて、夫妻の共通の親友であるリチャード・カッツと不倫関係に陥る。彼女は学生時代にバスケットボールのスター選手だったが、結局は専業主婦に収まった。民主党の政治活動にのめり込んで家庭を顧みなかった母親のせいで、私心のない愛に飢えているパティは、反動で自分の子どもたち溺愛する。ところがこれが裏目に出てしまい、息子のジョーイは家を出て放蕩生活。ダメージを受けたパティに「たっぷり」の時間は悪い方向から作用し、結果的にカッツとの関係へ押し流されることになった。引用はパティがセラピー目的で書きあげた個人史から。

どうしていいのか、どう生きればいいのかわからなかった。人生で新たな何かにぶつかるたびに、絶対に正しいと思える方向に進んできたはずなのに、そこからまた新たな何かが出現して、今度は逆の、こっちもまた正しいと思える方向へ背中を押される。一貫した物語がないのだ。生きていることそれ自体が唯一の目的と化したゲームの中で、ひたすらあっちこっちと跳ね回るだけのピンボール、それが自分だという気がした。

ウォルターはウォルターで苦しんでいた。今やロックスターとなって若者の崇拝を集めるリチャード・カッツへの羨望。そのカッツとともに自分を裏切ったパティへの失望。彼は自らを取り戻すべく、大学時代に熱心に打ち込んだ、過剰人口の抑制をめざす過激な運動にふたたび身を投じ、アシスタントのラリーサとは恋仲になる。政治運動は彼の精神的な支えとなったが、ラリーサが子供を産めなくなると想像するだけで、何もかも不毛に思えてしまうような矛盾を抱えてもいた。『フリーダム』の登場人物はみな、人生の重圧に押しつぶされそうになって、生活に「アクセント=ピストル」を求める点で共通している。不倫やドラッグ、政治活動や違法ビジネスなどかたちは様々だが、誰もが擦り切れた日常に変化を求め、自分が自分であることを確かめたがっている。このとき、タイトルの『フリーダム』という言葉は二重の意味をともなって聞こえてくるはずだ。
なるほど、私たちはみな日常を踏みはずす「自由」を持っている。しかしよく吟味してみると、われわれはいつの間にか、足元を踏みはずすという希望のなかでしか正気を保てない「不自由さ」に、絡めとられているのではないか。登場人物は一様に、逸脱への期待感から日常を離れていくものの、そこで安息を得ることもできず、また次の踏み外しを追い求めることになる。ここでは「自由」であり続けることを、「不自由」にも強いられるという、アイロニカルな事態が発生している。ところが作者のフランゼンとしては、この状況へ介入するつもりは毛頭ないらしく、一人ひとりの人物も、一つひとつの出来事も、妙な重みづけをされることなくフラットに書き分けられていた。『フリーダム』の美点は、逸脱する自由を手放しで称賛するわけでもなく、かといってその不自由さを嘲笑うのでもなく、最後まで淡々とした描写に徹しきったことだろう。

◆オープンエンドのワンダーランド
『フリーダム』との比較で『あ、ストレンジャー』をとらえなおすと、《リフレイン》の繰り返しから逸脱としての人殺しへつながっていく流れは、やや短絡的と思えなくもない。はたして本当にそうだろうか? そのとき私はラストシーンのむーちゃんの台詞をもう一度思い出すことになる。

 「はあ~、なかなか死ねないな~」

やはりマームとジプシーは、一筋縄ではいかない連中だ。こうして公演の収束と散逸は同時に到来することになり、演者たちのやり取りはいつまでも嚥下しきれないものとして違和感をはらみ続けることになった。それはウロボロスが象徴する円環的充足とかけ離れてはいるものの、解釈のオープンエンドというよりは、無限に遊べるワンダーランドへの入り口だった。

フリーダム

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