SUPPING CULTURE REVIEW

批評同人誌『PENETRA(ペネトラ)』のメンバー。ジャンルフリー、ネタバレありです。https://penetra.stores.jp

オラシオ・カステジャーノス・モヤ(2004)『無分別』

執筆後、とある方にご講評をいただきました。文字どおりのフルボッコ。記事ごと削除したいくらいですが、自戒のために残します。ご指摘の箇所を赤文字・コメントを紫文字で表記。思いだすだけで赤面。

無分別 (エクス・リブリス)

無分別 (エクス・リブリス)

日常的に海外文学に親しむ習慣をもたない人間にとって、「ラテンアメリカ文学」という響きは密教めいてさえ聞こえる。最近のものではロベルト・ボラーニョ『2666』がそうした参入障壁の一例として挙げられよう。A5判・八六八ページ・二段組という殺人的なボリュームを誇る『2666』は、税込六九三〇円という価格設定もあいまって、手に取られる前からラテンアメリカ文学の近寄りがたさをプレゼンしてしまっている。もちろん評者とて、ラテンアメリカ発の潮流が現代文学のシーンに築き上げた特別な地位を知らぬわけではない。(導入が長すぎる)しかしながら、一念発起したものの結局は読み終えることなく放擲してしまったガルシア=マルケスの『百年の孤独』が、わが家の本棚の片隅でひっそりと埃を積もらせ始めてから、いったいどれほどの時間が経ったのだろうか? 心躍るラテンアメリカ文学との邂逅。そのたびにいや高まる期待と、最期まで添い遂げられなかったときのむなしい落胆。そうした経験を重ねるうち、いつしか疎遠になっていった私たち。かようにラテンアメリカ文学への道は長く険しい。似たような覚えのある読者諸兄も少なくないのではないか(くどい)

そのような同志方々に万難を排して推挙したい(くどいくどい)のが『無分別』である。わずか一六四頁に収まるこの小品は、『百年の孤独』に敗退を余儀なくされた「ラテンアメリカ大長編アレルギー」の持ち主でも、心ゆくまで愉しむことができた。コンパクトな分量にラテンアメリカ文学の情趣を巧みに織り込んでいく技術も見逃せない。数えていけばキリがない本作の魅力(『百年の孤独』を読了できなかった者が何を偉そうに?)の中で、ここでは物語がまとう多層的な「ゆらぎ」の妙に注目してみたい。

小説は、とある報告書の「おれの精神は正常ではない」という一節で幕を開ける。政治的な理由からグアテマラと思しき隣国への移住を強いられた語り手の「わたし」は、昔からの友人であり今はカトリック教会大司教本庁に勤めるエリックに誘われて、かの政府による狂気じみた先住民族ジェノサイドの報告書編纂に携わることになった。教会を嫌悪する無神論者であるはずの「わたし」は、母国の軍人たちをも刺激しかねないプロジェクトに自らが加わってしまったことに腑に落ちない思いを抱いており、「わたしも精神が正常ではない」と感じている。そうした軋みは編纂作業の進展とともにいっそう悪化していくように見受けられ、彼の言語は虐殺を生き延びた者たちの禍々しい証言によって次第に飲み込まれていく。「信頼できない語り手」の挙動を仔細に追っていた読み手は、いつしか精神の正常/異常という境界が、「わたし」の意識と生存者による証言の弁別がゆらぎ始めていることに思い至るのである。

仮に作品の構成がここにとどまっていれば、通俗的な実存小説というフレーム(は? 何ですかそれは?)に回収されていたのかもしれないが、『無分別』はダイナミックにセックス・エンターテイメントを持ち込む(書いてて恥ずかしくならないの?)ことで別種のゆらぎをまとい始める。序盤に見られたシリアスな側面は、底流しながらも徐々に相対化されてゆき、代わってあまりにも情けなく、ゆえに乾いた笑いを禁じえないシークエンスの数々(ユーモアは本作のキーポイントであり、ここをもっとふくらませてもいいはず)が舞台を乗っ取っていくのである。いくつもの切れ目を縫ってたどり着いた結末に、交錯してかすみゆく境界の中から、いかなるリアリティをすくい取るのかは、ひとえに読み手に委ねられている。(抽象的でレトリックに頼り過ぎている。読めていないことの何よりの証拠)

私はこの小説を、普段なら素通りする書店の一角にかくも豊饒な地平が広がっていたのかという、新鮮な驚きとともに記憶するだろう。ラテンアメリカ文学のハードルを勝手に上げていたのは誰あろう自分自身だったのだ。そう、この作品が想起させるのは、未知の世界へと「無分別」に飛び込んでいったときの、あの畏ろしくも悦ばしいフィーリングである。あなたもこの機会に、あなたにとっての「オラシオ・カステジャーノス・モヤ」を、無分別に手に取ってみてはどうだろう(意味不明)