SUPPING CULTURE REVIEW

批評同人誌『PENETRA(ペネトラ)』のメンバー。ジャンルフリー、ネタバレありです。https://penetra.stores.jp

アルフォンソ・キュアロン(2013)『ゼロ・グラビティ』

ゼロ・グラビティ』は表面的にはテクノロジーに多くを負った映画のように見える。サンドラ・ブロック演じる女性技術者は予期せぬスペースデブリ宇宙ごみ)の大群に見舞われ、乗船中のシャトルが大破。デブリの直撃を受けた同僚は顔面に大穴を開けて絶命するが、宇宙空間では血液すらも瞬時に凍りつく。生存者はサンドラ・ブロックジョージ・クルーニーのふたりだけになってしまった。彼らの悪戦苦闘ぶりが、迫りくる酸欠と無限漂流の恐怖が、精緻を極めるテクノロジーによって間断なく写し出される。その圧倒的なテンションにのめり込めば、九〇分はあっという間に過ぎてゆくにちがいない。だが、鑑賞後には何が残っただろう? 驚異的なテクノロジーを前にして、ストーリーの印象はどうしてもかすみがち。映像はすごいけど中身は大したことないね、といった評判が今にも聞こえてきそうだ。生き延びること。たしかに『ゼロ・グラビティ』はそれだけの物語である。おそらく、本作について語るべきは映像美ではない。重量級のテクノロジーと一見「軽すぎる」プロットのアンバランスな共存にこそ、『ゼロ・グラビティ』の面白さがある。

監督を務めたアルフォンソ・キュアロンのキャリアを簡単にさらっておこう。メキシコ出身のキュアロンは本国で製作した『最も危険な愛し方』(91)で長編デビューすると、二作目からはアメリカに進出。ヴェネツィア映画祭脚本賞を獲得した『天国の口、終りの楽園。』(01)のほか、意外にも『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』(04)を手がけている。短くないキャリアのなかで、『ゼロ・グラビティ』を読み解く補助線となるのが二〇〇六年公開の『トゥモロー・ワールド』だ。『ゼロ・グラビティ』と『トゥモロー・ワールド』はSF作品という共通項を持つだけでなく、プロットにおいて合わせ鏡のように反響しあっている。近未来を舞台とする『トゥモロー・ワールド』が描いたのは、全人類が生殖能力を失って二十年近く経過し、絶滅すら危惧されている世界。国際的に混乱が広がるなか、主人公・セオが暮らすイギリスは、高度なセキュリティ社会を構築し不法移民を徹底排除していた。元妻が率いる反政府グループはセオを脅迫し、移民女性・キーのために通行許可証を発行させる。セオは驚くべきことにキーが身籠っていると知り、彼女を危険から守ろうとするが……。以上が主だった流れであり、『トゥモロー・ワールド』が『ゼロ・グラビティ』同様、生き延びることをテーマにしていたとわかる。ジョージ・クルーニーが自らの命と引換えにサンドラ・ブロックを救ったように、セオはキーを安全な場所へ送り届けた末に息絶える。キュアロンが書いたのは、ともに男が命を捨てて女を生かすストーリーなのだ。

ここで、ふたつの作品を隔てる質的な変化を見逃すべきではない。『トゥモロー・ワールド』において、女を救うことは未来を左右する重大な使命となっていた。女が文字通り人類のキー=鍵を握っているからだ。一方の『ゼロ・グラビティ』は、サンドラ・ブロック演じるライアン・ストーンが死んでしまおうと誰ひとり困らない設定になっている。彼女は宇宙を漂流するただの物体、ただの石ころ(Stone)としてある。人類の命運がかかっているわけでも、地球に家族が待っているわけでもない(娘は事故で死んでしまった)。誰のためでも何かのためでもなく、石ころに等しい人間がただ生き延びようと、もがき続ける。キュアロン監督は、それだけで十分に感動的ではないか、と問いかけているようだ。そこには膨大なエネルギーとテクノロジーを費やすだけの価値がある、と。

クロスレビューを2014年5月5日(月・祝)開催、第十八回文学フリマで頒布する批評同人誌『PENETRA』第4号に掲載します。ブースはエ-53。