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批評同人誌『PENETRA(ペネトラ)』のメンバー。ジャンルフリー、ネタバレありです。https://penetra.stores.jp

よみがえる「砂の女」 —小山田浩子(2013)『穴』

一人称小説である。主人公の「私」は非正規雇用で会社勤めをしていたが、夫の転勤で同じ県内にある彼の実家のとなりに引っ越すことになった。「私」はなにを語るにも一歩引いていて、強い関心を持っている対象もなければ、人知れず欲望をためこんでいるわけでもない。淡々としている。引っ越し先には、同僚が羨ましがる「夢みたいな」「専業主婦」暮らしが待っているのだろうか。
私が、今までしていた、非正規とはいえフルタイムの仕事は、実は、家賃がただになり、その他の諸経費が安くなれば別に絶対必要ではないものだったのだ。そのことに、私は徒労を感じていた。(…)人生の夏休み、もしかしたらそれは終わりが来ないかもしれないのだ。
「私」には精神的な不安定さが見受けられはじめ、並行して周囲では奇妙なできごとが起こってくる。とはいえ彼女の語りはどこか頑さすら感じさせるほどに落ち着いたままだ。それを挑発するように不可解な事象は広がりをみせていく。その最たるものが、夫からも姑からも知らされていなかった義理の兄の存在だろう。義兄は、じつはすぐ近くに住んでいた。 
ねえ、家族って妙な制度だと思いませんか。一つがいの男女、雌雄ね。それがつがう、何のために、子孫を残すために。でもさ、じゃあ誰もかれもが子孫を残すべきなんだろうか?(…)それが僕は気味が悪いんです。悪かったんです。わかりますか? わかるわけないか。はは、わかっちゃ困る、ね、謀反を起こすのは一族に一人で充分だ」
義兄は家族というものに相当な拒否反応を示す。裏を返せば、この小説の内部にそれだけ強い家族形成の規範が秘められているとも読み取れる。そうした背景を踏まえて振り返ってみると、小説中の「穴」は生殖=再生産関係への入り口を表しているようだ。「私」は土手の草むらで「穴」に落ちるのだが、外に出かけたのは姑に頼まれたお使いを果たすためだったし、そもそも夫の実家に住むことになったのも姑の勧めがあったからだ。「私」は巧妙に「穴」へと誘導されているようにみえる。義兄は「穴」のある川原や土手の事情に詳しく、近所の子どもたちから慕われているが、「僕ぁ入らないよ! 僕ぁ穴には入らないよ!」という。大雨の日も庭にホースの水を撒き続けていた痴呆ぎみの義祖父は、深夜に家を抜け出して「穴」へと向かう。この家の「穴」がいまどうなっているのか確かめたかったのだろうか? 義祖父は「穴」の中に入り、「私」もその近くに開いていた穴へと入る。「私」はその夜初めて義祖父と「目が合った気が」する。

物語終盤、義兄の正体が明らかとなり、周囲で起きていた奇妙なできごとにも説明がついてくる。というより、「私」自身がそれに奇妙さを感じなくなったとするのが正しいだろうか。『穴』が描いたのは包摂のプロセスだ。異物の中へ取り込まれるグロテスクさと、抵抗を諦めたときの安堵感が同居している。この小説がどことなく安部公房の『砂の女』を連想させるのは、きっとそのせいに違いない。 

文藝春秋 2014年 03月号 [雑誌]

文藝春秋 2014年 03月号 [雑誌]

 

 クロスレビューを2014年5月5日(月・祝)開催、第十八回文学フリマで頒布する批評同人誌『PENETRA』第4号に掲載します。ブースはエ-53。