SUPPING CULTURE REVIEW

批評同人誌『PENETRA(ペネトラ)』のメンバー。ジャンルフリー、ネタバレありです。https://penetra.stores.jp

柴崎友香(2014)『春の庭』

 この作品にはいくつかの、時間を超えたアイテムが登場する。主人公・太郎の父の遺骨を粉にしたすり鉢と乳棒、水色の外壁の家を二十年以上前に収めた写真集「春の庭」。トックリバチの巣や、旧日本軍の不発弾、ソファの隙間から出てくる乳歯といったものもある。テーマは、かつてここにあっただろうものが今はもうない、あるいは、あるはずのないものがなぜかここにある、ということ。ストーリーを展開させるのは、太郎を介して行われる物のやり取りだ。とある親切に対する礼として、太郎は同じアパートの住人に、同僚が土産にくれたままかりや鮭とばを差し出す。お返しにもらったドリップコーヒーを会社に持ってゆくと、今度は社長がごぼうパンをくれる。西というアパートの住人が、隣家である水色の家を覗こうとするのを結果的に助け、彼女から写真集「春の庭」をもらいうける。さらに、水色の家に住む森尾さん一家の引っ越しに伴い、ソファセットと大型の冷蔵庫を譲りうけ、ソファのうちひとつを姉に分け与える。このように、太郎の持ち物が誰かの手に渡ったり、彼が持つはずのなかった物を委ねられたりするプロセスが、ストーリーの要となる。ここで明らかとなるのは、ある/ないはずのものが・ない/あるというテーマと、何かが太郎のものでなくなる/太郎のものになるというストーリー上のスイッチが、並行して配置されているということである。前者は通時的、後者は共時的といった区分も可能だろうが、どちらも「いま、ここにあるもの」を相対化する点では共通している。相対化とは確かさの喪失である。それは捉え方次第で、困難にも希望にもなりうる。次の箇所から伝わってくるように、この作品は基調としてそこに希望を見いだしている。 

 一つ一つの建物にはそれを建てた人の理想なり願望なりがあったのだろうが、街全体としてはまとまりも方向性もなく、それぞれの思いつきや場当たり的な事情が集積し、さらにその細部がばらばらに成長していった結果がこの風景なのだと思うと、太郎は気が楽になった。その片隅で自分一人くらい畳に転がって昼寝して休日が終わってもいいだろうという気持ちになった。

 確かさと引き換えに、解釈の自由がもたらされる。太郎が父のすり鉢と乳棒を水色の家の「春の庭」に埋めたのは、別の文脈に置かれていたもの同士を接続しようとする試みである。太郎の行いは、柴崎的な世界においてはまず肯定されるに違いないと思われた。ところが、物語はそうなっていない。太郎がスコップで掘ったのは、写真集「春の庭」のなかで牛島タローという人物が穴を掘っていた場所。太郎と姉が「これ、なにしてるんやろな」と想像をめぐらせた場所でもあった。そこには解釈のスペースが残されていたはずである。しかし、実際に穴を掘ってみると「埋まっていたのは石」だった。「丸い、ちょうど卵くらいの大きさの石。それがいくつも出てきた。取り出しても取り出しても、同じような石ばかり」だった。太郎はすり鉢を埋めてから青い家の二階に忍び込み、眠りにつくが、目覚めてみると階下では、ドラマか映画か何かの撮影が行われている。それはいうまでもなく、作り物のお話である。すり鉢と「春の庭」の接続は、形を変えて、作為的なものにすぎないと告げられてしまうのだ。ラストの一文も手厳しい。

冷蔵庫の中にある豆腐を今日中に食べなければならないことを、太郎は思い出した。

 振り返ってみよう。太郎の姉は写真集「春の庭」をみて、「この家でいっしょに暮らしてるのに、食べてるところの写真が一枚もない。食べ物も、ない」と感想を漏らしていた。太郎も「西さんも気づいてたんかな」と応える。私たちはどれだけ自由な空想に遊んでも、食べ物のことを気にかける現実に戻ってこなくてはならない。解釈の自由は石のように不毛で、どこまでも作為的。写真集を眺めていても腹の足しにはならない。柴崎によるこの芥川賞受賞作は、けっこう苦い。 

春の庭

春の庭

 

⇒長編批評を含む計四本のクロスレビューを2014年11月24日(月・祝)開催、第十九回文学フリマで頒布する批評同人誌『Penetra』第5号に掲載します。ブースはカ-64。