SUPPING CULTURE REVIEW

批評同人誌『PENETRA(ペネトラ)』のメンバー。ジャンルフリー、ネタバレありです。https://penetra.stores.jp

山下澄人(2015)『はふり』

結末部分についての記述を含みます)

語り手の立ち位置のわかりにくさをどう受け止めるか。その一点で評価の分かれる作品である。その手法に必然性と説得力を感じれば、自然と評価は高いものになる。逆もまた然り。物語はこんなふうに幕を開ける。「わたしたちは旅に出る前、どのように旅を行うかの相談を実に長い期間にわたってした。相談するのはいつも同じ公園だった」。語り手は《わたしたち》だ。〜たちというからには複数なのだろう。ともに旅をすることにした《金田》と《三好》の二人組が、ひとまずは《わたしたち》を構成しているようにみえる。それだけのことが、なぜハッキリしないのかといえば、《わたしたち》が《金田》について語り、同時に《三好》についても語っているからだ。《わたしたち》として語っているうちの本体=《わたし》が誰なのか判別できない、とも言い換えられる。

金田は目が見えない事になっていた。(中略)三好は右足が不自由な事になっていた。」(一四〇頁、太字は引用者、以下同)
 —「文學界」平成二十七年二月号

もしも《金田》が《わたし》なら、引用した箇所は「わたしは目が〜(中略)三好は右足が〜」と書かれるべきだし、《三好》が《わたし》ならばその反対となるはずである。単に一人称と三人称を、金田と三好のどちらかに割り振れば良いだけのこと。しかしこの小説はそうなっていない。《わたし》はいつまで経っても、《金田》とも《三好》とも確定できない。試しにラストまで話を進めてみよう。結末近くになって、《三好》の死が示唆される。「三好はもうこたえない。三好はもうたぶん二度と話をしない」と。次の文章が続く。

「それからわたしたちは海を右にして、からだの向きを変えた。しかし三好が向きを変えようとしない。何度も金田がうながしても、テコでも動こうとしない。」(一九九頁)

明らかなのは、《三好》がどうやら死んでしまったのに、《わたしたち》は何ら影響を被っていないということである。《わたしたち》は超然としている。《三好》は《わたしたち》の必要条件ではないのだ。この場面に至っても三人称の扱いを受けている《金田》だって、やはり《わたしたち》の正体=《わたし》ではないだろう。最後の二文は輪をかけて厄介である。

「運が良ければ、悪ければ、再びここへわたしたちは戻って来る。そのときわたしを見たとんびがいるかどうかは知らない。〈了〉」(同)

こうして物語の終焉とともに、剥き出しの《わたし》が登場する。それ以上の説明はない。読者は呆気にとられるだろう。《金田》でも《三好》でもない第三の何者かが《わたし》なのか? 正直ついていけない。どうして「はふり」なのかもよくわからない。ごもっとも。けれど文中には、いくつか伏線らしきものが残されてはいたのだ。

「公園には大きな木が三本あった。そのどれもが同じようなかたちをしていて、見る角度によっては二本に見えたり、一本に見えたりした。」(一四〇頁)
「男の目には河原で作業する独りの男が見えていた。しかしそれはときどき二人にも見えた。三人いた気がした事もあった。」(一六四頁)

公園の大きな木。旅の道中、河原の対岸から《金田》と《三好》を見た男の漏らした印象。アン、ドゥー、トロワ。アン、ドゥー、トロワ。そんなものたちが。と、ここで紙幅が尽きる。この作品の中に擁護できる要素をこれ以上探さなくて済むと思うと気が楽だ。一言、つまらなかった。

文學界 2015年 2月号 (文学界)

文學界 2015年 2月号 (文学界)