SUPPING CULTURE REVIEW

批評同人誌『PENETRA(ペネトラ)』のメンバー。ジャンルフリー、ネタバレありです。https://penetra.stores.jp

倉本聰「なごり雪」(TBS系『おやじの背中』第三話)

 映像制作には「ヒッチコックの法則」という決まりごとがある。カメラフレームに占める対象の大きさが、その時点における対象の重要性を示す、というシンプルな法則である。対象は人物に限らない。第三話「なごり雪」の場合、それは耳だ。ドラマは小泉金次郎(西田敏行)の耳の超クローズアップからスタートする。そして挿入されるナレーション。ん、ナレーション……?

これは、この物語の主人公の耳である。この耳が男の人生を支えてきた。だが、その耳が年とともに近頃だんだん遠くなってきた。

 短いフレーズながら、そうとうの違和感がある。いや、減ってはいると思うが、近年のドラマだってナレーションがなくなったわけではない。直近でいえば『昼顔』や『聖女』といった作品は冒頭にナレーションを伴っていたし、NHKの連続テレビ小説(朝ドラ)は週六日・十五分枠という放送上の制約から伝統的にナレーションを多用している。ただし、『昼顔』や『聖女』のナレーションは女性主人公が自身の心象風景を語ったものであり、『あまちゃん』は天野夏・アキ・春子によって語られていた。共通するのは、ドラマに登場する人物たちがナレーションをしているということ。こうして「なごり雪」の引っかかりの出所が明らかになる。ナレーター……お前はいったい誰だ? いや、喋っているのは德光和夫だが、彼がドラマに出てくることはない。登場人物でない語り手とは、小説でいうところの「神の視点」を持つ者である。この場合、語り手は登場人物たちと距離を保つことになり、ストーリー進行の柔軟性が増す。一方でそのような語り手は、お前は誰だ? と問いただされる危険につねに晒されている。テレビドラマの世界では、感情移入を促す意図もあって、次第に「神視点ナレーション」の使用が少なくなってきたということだろう。だから神視点ナレーションには、どこなく昔日の趣がある。

 耳の話に戻ろう。金次郎は耳を悪くしたことにより、自身の肉体的な衰えを思い知らされる。ワンマン社長の彼は、耳の良し悪しとは無関係に、周囲とのコミュニケーションに齟齬をきたしてもいた。会社の創立記念パーティーで金次郎が希望する催し物は部下の手で次々に却下されてゆくが、彼は引き下がらない。金次郎は「聞く耳」をもたない時代錯誤な人物として描かれているのだ。

金次郎「イルカさんが「なごり雪」を歌ってくれるというこのパーティーのハイライト、あれはどうなった?」

金一 「あれはまだ、イルカさんの調整がつかず」

金次郎「俺と、母さんのそもそもの出会いは、つねにイルカさんの「なごり雪」がバックにあった。母さんと初めてデートした日、母さん、あの歌口ずさんでた。会社を始めた日も、「なごり雪」が流れてた。倒産しかけて、母さんとふたり信金の支店長に土下座した日も、なぜか、どっかから「なごり雪」が流れてた。それを外すなら、パーティーはいらない。創立四十周年の祝賀会は、中止」

 金次郎はこのあと、彼が妻に出会った当時、まだ「なごり雪」は世に出ていなかったと部下に告げられる。無情にも。彼は我を忘れて怒鳴り散らすしかない。その姿はとても滑稽で物悲しく、西田敏行というより上島竜兵にみえてくる。同時に、視聴者はひとつのことに気づかされる。神視点ナレーション、国からの叙勲を欲しがる金次郎(そんなものいまどき誰が欲しがるのだろう?)、フォークソングといった要素は、たしかに強烈なアナクロニズムを漂わせている。けれども、脚本家にそれらを美化しようという意図はないのだと。なにしろ、「なごり雪」は存在しなかったのだ。その記憶は作り物だったのだから。『ALWAYS 三丁目の夕日』とは違うのである。こうして作品のテーマは、一見したところの懐古趣味などではなく、むしろ金次郎と彼の記憶が敗れ去り古びてゆくことの寂しさへと定められていく。年下の脚本家に囲まれて今回の企画に参加した倉本聰の心象と、重なってもいるのだろうか。金次郎は、失踪する。

しのぶ「あの晩私がやめてって言ったのに、さんざんおじいちゃんの悪口言ったじゃない。(略)みんなで古すぎるって笑った。おじいちゃんの立てた祝賀会のプラン、時代錯誤だって笑い物にした」

歌子 「だって! おじいちゃんのいるところで言ったわけじゃないじゃない……」

金一 「耳が遠くなってるんだ。聞こえるわけない」

 会社だけではない。家族にも思い当たる節があった。金次郎の旧友で元刑事の大塚(小林稔侍)が駆けつけ、ついに居場所をつきとめる。だが、大騒動にしてしまった手前、金次郎は簡単には帰ってきにくいだろうと考えた大塚は、ひとつ芝居をうつことにする。「それで現在重大な課題はだね、どうすれば、あいつの尊厳を傷つけず、あいつが姿を現すことができるか。その方法を考えてやることです」。彼は金次郎にも会い、突発性の脳梗塞で記憶がなくなったことにしろとアドバイスする。大塚は皆に「ウソ」の効用を積極的に説いているようにみえる。優しいウソ、互いを思いやってつくウソがあるのだと。それは、「なごり雪」が聞こえたなんてウソでしょう、と金次郎が無慈悲に突きつけられたものとは、まったく異なる。おそらく、金次郎と大塚には倉本聰の現在が部分的に反映されているのだろう。巨匠と呼ばれながら、肉体的には衰え、周囲の声が耳に入らなくなっているかもしれない自分。だが、もうひとりの自分は、いまでも「ウソ」=ドラマによって世界をより良いものにしたいと本気で考えている。その意欲も、力も残っている。

 ラストシーンではさらにもうひとつの、しかしもっとも美しいウソが飛び出してきた。俺はまだまだこれからだと倉本の鼻息が聞こえてくるような、見事なラストシーンである。

ランキング

第四位 ——— 第三話 倉本聰なごり雪

まもなく傘寿を迎えようという大脚本家が、軽やかにトリプルルッツを決めた。

⇒全話のレビューを2014年11月24日(月・祝)開催、第十九回文学フリマで頒布する批評同人誌『Penetra』第5号に掲載します。ブースはカ-64。