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批評同人誌『PENETRA(ペネトラ)』のメンバー。ジャンルフリー、ネタバレありです。https://penetra.stores.jp

脚本家たちのバトルロワイヤル —TBS系『おやじの背中』全話レビュー 序文

 日曜劇場『おやじの背中』は、十人の脚本家による一話完結一時間のオムニバスドラマである。かつて日曜劇場は民放唯一の単発一時間ドラマだった。それが連続ドラマ枠に替わったのは一九九三年のこと。さまざまな事情があったのだろうが、ひとつには、ある回が好評を博しても次の回の視聴につなげられない、という単発ドラマ特有の不都合が意識されたのではないか。その点、連続ドラマであれば、回を重ねるごとに登場人物への感情移入は深まっていくだろうし、ワンクールというまとまった時間を使ってクライマックスへの盛り上がりを用意することもできる。視聴者を引きつける力が単発より強いのである。もちろん良い面ばかりではない。ワンクール=三ヶ月という視聴期間が今日のライフスタイルにマッチしていないという指摘はたびたび耳にするし、後半戦が消化試合となってしまう恐れともつねに隣り合わせだ。とはいえ、そういった面を差し引いても、連続ドラマの優位は揺らがないように思える。単発ドラマが一部の愛好家のあいだでしか話題とならないことは、雄弁にそれを物語っている。こうした状況を前提とすれば『おやじの背中』が意欲的な企画であることは明らかといえよう。しかし、本稿が着目するのはそれに限らない。この作品が可能とした独特の愉しみ方に焦点をあてる。どういうことか。番組プロデューサーの八木康夫は、一九九三年までの日曜劇場とは異なるアプローチとして、「おやじの背中」というワンテーマを設定した。連続ドラマの形式に親しんだ今日の視聴者にも受け入れやすいよう、工夫を凝らしたのである。この試みが思わぬ効果を生むことになる。

 第一に、脚本家たちによるガチンコ対決の舞台が現出した。彼らは通常、バラバラのテーマに取り組んでいる。そのため、視聴者による作品の出来不出来の判断も、テーマとの相性に左右される面が少なくない。ところが今回、ワンテーマの制約を課されたことにより、作家たちは単一の土俵での表現を余儀なくされたのである。そこでは各々の実力が隠しようもなく明らかとなってしまう。言い訳がきかない。作り手には負担のかかる仕事に違いないが、ドラマファンにとってはこの上ない愉しみである。第二の効果は、彼らがたたかう舞台の環境に関するもの。「おやじの背中」というテーマからは何が連想されるだろう? すぐに思い浮かぶのは、父親との対立・葛藤・和解、そして感動のフィナーレといった「いかにも」な場面ではないか。十話を通してみると、やはり対立と和解のセットは描かれやすい。それが後半の回に進むにつれ、感動のインフレーションとでもいうべき事態が生じてくる。一つひとつの感動の重みが失われてゆくのである。作家たちはこの、必然的にインフレを招き寄せる足場の悪い舞台でたたかわなくてはならない。

 そのような場所、これまでのキャリアや評判に頼れない、かつ後半に進むほどインフレーションで足元が泥沼化していく場所で、脚本家たちは何を語るのだろうか。本稿は全十話をレビューしてそれを追いかける。末尾には十話のランキングを付し、総論としたい。もちろんランキングから先にみてもらっても構わない。世界の森羅万象がテクストであるように、おやじの背中もまたひとつのテクストである。

第一話 「圭さんと瞳子さん」 作:岡田惠和

第一話 「圭さんと瞳子さん」 作:岡田惠和

 

⇒全話のレビューを2014年11月24日(月・祝)開催、第十九回文学フリマで頒布する批評同人誌『Penetra』第5号に掲載します。ブースはカ-64。