SUPPING CULTURE REVIEW

批評同人誌『PENETRA(ペネトラ)』のメンバー。ジャンルフリー、ネタバレありです。https://penetra.stores.jp

大江健三郎(1967)『万延元年のフットボール』

万延元年のフットボール』は、歴史に連なる大きなスケールの物語と、見ていて気の毒になるようなスケールの小さい登場人物たちが同居する、不思議な遠近感を持ったテクストである。根所蜜三郎は行き詰まっていた。息子は障害児として生まれ、妻とは始終ぎくしゃく。追い討ちをかけるように親友が死ぬ。それも素っ裸に頭から真っ赤なペンキをかぶり、肛門にキュウリを挿し込んだうえでの首吊り自殺であった。憔悴きわまった蜜三郎はアメリカ帰りの弟・鷹四の提案を容れて、故郷愛媛の谷間の村に帰ることを決意する。ところがこの弟というのがとんだ厄介者で、ドストエフスキー『悪霊』のスタヴローギンを地でいくような破滅願望の持ち主。スーパーマーケット経営者として終戦後の谷間を牛耳ってきた在日朝鮮人を標的に据え、曾祖父の弟が万延元年にぶち挙げた百姓一揆を百年後の現代に再演すべく、フットボールの練習という名目で、村のくすぶる青年たちを巧みに動員するのであった。いったい何が鷹四をそこまで激しく駆り立てるのか。終盤に明かされる彼のヒミツは、何というか、薄味に思える。そんな理由でよくもここまで風呂敷を広げたものだ……といったん白けてはみよう。だが、鼻先まで臭気が漂ってきそうな濃いめの文体に何度となく悪酔いしようとも、登場人物の矮小さについわが身を重ねては辟易しようとも、物語が持つ抜群の面白さにページを繰る手はいよいよ止まらない。終わってみれば、そもそもは自己保身から始まったところの偽史的想像力を弄ぶうち、期せずしてこれほどまでに豊かな小説世界を築き上げてしまった「鷹四」の存在が、人間の持つ無限の可能性を余すことなく体現しているように感じられ、ある種オプティミスティックな爽快感さえ覚えるのであった。それは実に、深い森に囲まれた小説世界が醸しだす閉塞感とは、まったく裏腹のものであった。

万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)

万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)