SUPPING CULTURE REVIEW

批評同人誌『PENETRA(ペネトラ)』のメンバー。ジャンルフリー、ネタバレありです。https://penetra.stores.jp

存在しない「桐島」と偏在する「椎名」 ―マッチポンプ式物語批判を脱臼させる『ここは退屈』のクールネス

今年の夏は例年にもまして周囲で映画の話題が聞かれたように思う。クリストファー・ノーランによるバットマン三部作の完結編や「日本よ、これが映画だ。」なるコピーが作品以上に浸透した『アベンジャーズ』。そこへスパイダーマンも加わってアメコミ原作モノの盛り上がりは際立っていたし、スキャンダラスな『ヘルター・スケルター』や『サマー・ウォーズ』以来となる細田守監督作品の公開など、邦画も活発なコミュニケーションを誘う力作揃いだった。
だが、そのような錚々たるラインナップの中にありながら、多くの熱狂的な支持を得て今夏最大のバズを巻き起こしたのが『桐島、部活やめるってよ』であったことに、議論の余地はないだろう。

桐島、部活やめるってよ (本編BD+特典DVD 2枚組) [Blu-ray]

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桐島、部活やめるってよ (集英社文庫)

桐島、部活やめるってよ (集英社文庫)

◆原作にあって映画版にないもの、しかし決定的な
『桐島、部活やめるってよ』は、小説すばる新人賞に輝いた朝井リョウのデビュー作を下敷きにしているものの、原作と映画版はその位相において決定的に異なっている。

≪原作≫
「風助! 背中にテープ貼ってくれん?」
桐島が笑うと、ニカッという音がした。桐島は、何の嫌みもない、からっと晴れた日のような笑顔をする。
 (…)
「風助!」
タイムアウトのたびに、桐島は上気した顔で俺のところまで走ってくる。
「なんかないか?」
どこがあかんかった? 桐島はタオルで汗を拭きながら、俺に意見を求めてくる。
 (…)
ニカッという音が聞こえる。俺がアドバイスすると、どんなに小さいことでも桐島は本当にありがたそうな顔をして笑って、サンキュ、次は完璧、とかっこいい言葉を残して、ホイッスルの音とともにコートへ戻っていく。

図らずもレギュラーの座を手にすることになった男子バレー部員・小泉風助は、小説の中で、試合に臨む桐島の様子をこう回想する。

≪原作≫
桐島、たぶんお前も、バレーをしているとき、こんな顔をしていたんだろう、と俺は思った。自分がやりたいことを全力でやっているときは、たぶん誰でも、こんな顔をしているのだろう。とっぷりと何かに濡れていた心が絞られて、蜜のようにこぼれ出た感情が血管を駆け抜けていく。
 (…)
大丈夫、お前はやり直せるよ。と桐島に言ってやろう。お前は俺と違って、本気で立ち向かえるものに今まで立ち向かってきたんだから、そんなちっさなことで手放してまったらもったいない、って言ってやろう。

チーム随一の能力を持ちながら練習にほとんど参加しなくなったどっちつかずの野球部員・菊地宏樹は、バレーに打ち込む桐島を思い浮かべて彼にかける言葉を探そうとする。このように原作中の桐島は、登場人物の内面において対象化され姿を与えられている。彼は回想の中で言葉を発しているし、自身のキャラクターを少なからず伝えてもいる。その存在は宏樹の心象を強く揺さぶっている。もちろん桐島は上位カーストの地位を占めてはいるだろうが、あくまで一人の高校生というカテゴリを踏み越えることはなく、生身の人間としてのセンシティヴィティを推し測ることは不可能ではない。そう、原作には桐島がたしかに「いる」―存在しているのだ。
風助には桐島が退部した理由についても思い当たる節がある。

≪原作≫
顧問から桐島のことを告げられたとき、桐島はギリギリと軋むように削れていった体育館を思い切って捨ててしまったのだと俺は思った。誰も本当の理由に気づいていないふりをしているけれど、誰もが気づいている。

他方、映画版における桐島の徹底した不在感は対照をなしている。彼の痕跡は乏しく、人となりが窺われるようなエピソードはほとんど出てこない。グループ仲間の竜汰と友弘が交わす「なんか、他の奴らとうまくいってなかったみたいよ?(略)だからバレー部の連中、桐島のこと苦手だったんだって実は」というやりとりも、まったく連絡がつかずに思いつめた梨紗の「……ふざけんな桐島」という恨み節も、実のところ彼その人については何ら語っていない。受け手に届けられるのは、桐島がいなくなった、うまくいってなかった、でも何の素ぶりもなかった、という否定形で語られる事実ばかり。以下に引用する映画版公式ホームページの作品紹介からも知れるように、桐島本人のキャラクタリゼーション(造型)は周到に回避されている。そこにあるのはキャラではなく、単に属性を示しただけのものだ。

≪映画版ホームページ≫
作品紹介
事実1 桐島はバレー部のキャプテンだった。
事実2 桐島は成績も優秀だった。
事実3 桐島の彼女は校内一の人気女子だった。
事実4 桐島は金曜日に突然部活をやめた。
それ以外のことを、僕たちは何も知らない。(※下線は原表記ママ)

「どうして桐島は部活をやめたのか? その答えは本編に隠されている……」とでも続いていきそうな紹介文。桐島はもはや一個の人格というよりも、解きがたい「ミステリ」としてストーリーを駆動させるために召還された、設定それ自体のように感じられる。映画版に桐島は「いない」―少なくとも人となりとしては存在していないといってよいだろう。

◆ベストセラー青春文学から「ミステリ仕立ての思考実験」へ
原作とのあいだに広がるこの落差を、ことばによる内面描写を得意とする小説と、それに依存した身振りを敬遠しがちな映画という、各々の表現形式の違いに還元して説明してしまうことも不可能ではない。しかしながら、多少なりとも桐島の人となりが伝わってくる原作小説に、映画版の「それ以外のことを、僕たちは何も知らない。」という明快なマニフェストを対置させてみれば、意図があっての再構成と受け取るほうが自然と思われる。
この変更によって映画版『桐島』は、原作が持っていた繊細な心理描写をコアとする青春文学としての側面を後退させ、ミステリ仕立ての思考実験という新たな様相を帯びることになった。言い換えれば「桐島はなぜ部活をやめたのか」、ひいては「桐島とはいかなる存在なのか」というミステリが物語の推進力となったうえで、「桐島不在がもたらす校内システムの不調」という独自のテーマが前景化しているのである。
原作小説と映画版の対照は、先取りも含めると、下表のように整理される。

表:『桐島、部活やめるってよ』原作小説と映画版の比較

 

 原作小説(:桐島は存在する)

 映画版(:桐島は存在しない)

 

桐島の人格

(キャラクター)

 

爽やか

バレーに本気

不器用

-

(独善性と超然性が示唆される程度)

 

部活をやめた理由

 

「誰もが気づいている」

-

作品テーマ

心理描写ベースの青春文学

↓①↓   ↓②↓

ミステリ仕立ての思考実験

桐島の属性

(ステータス)

高校生カテゴリから逸脱しない

レベルのオールマイティさ

強調・誇張された完全無欠性

桐島という「名」

の多義性

キリスト

カリスマ

『野ブタ』の桐谷

前田の映画作品

『陽炎~いつまでも君を待つ~』

:映画甲子園審査員特別賞

「青春モノ」

『君よ拭け、僕の熱い涙を』

:映画甲子園一次予選のみ通過

『生徒会オブザデッド』

前田と武文の愛読誌

キネマ旬報

映画秘宝

登場する映画記号

『ジョゼと虎と魚たち』

『ニライカナイからの手紙』

『サマータイムマシン・ブルース』

『スクリーム3』

『鉄男』

タランティーノ監督作品

※灰色部分:キャラクターと退部理由の不可解さがミステリを構成している。

◆原作版「桐島」から映画版「キリシマ(= キリスト + カリスマ)」へ
先述したように、映画版の桐島は「人格」ではなく「設定」として、すなわちキャラクターではなく属性単体として表象されている。さて、提示される属性(ステータス)の内容自体は共通のものかといえば、ここにも原作とのあいだで幾分隔たりが見られる。

≪原作≫
桐島はやっぱりうまいし、小学校からバレーをやっていたらしいし、ていうか何よりキャプテンだし、リーダーシップあるし、誰にだってアドバイスできるし、きついことをきつい言葉でたくさん言うけれど、それはもちろんチームのためで勝利のためでメンバーをまとめるためであって、
みんなわかっていた。みんなそれをわかっていて、
桐島だけが、ぽかんと、浮かんだ。

桐島が次第に孤立してゆく経緯を風助がたどるこの場面でも、「誰にだってアドバイスできる」オールマイティな桐島と彼による「きつい言葉」が描写されてはいる。ただし、それが「チーム」や「勝利」を思っての必要悪に他ならないと解釈され、即座にフォローされていることに注目したい。というのも他方の映画版において、「キャプテン」であり「成績も優秀」で「彼女は校内一の人気女子」と、第一義的に「設定」として紹介された桐島は、目立ったフォローを受けるもことなく近いようで遠い存在として語られているからである。

≪映画版≫
竜汰「までもただの受験対策って可能性もあるしな」
友弘「え早くね?」
竜汰「早過ぎて損はないでしょ」
友弘「えーマジか。つか部活で推薦入学とか超楽そうだよな」

風助「なんか言ってた? 桐島。オレらのこと、バレー部。なんか、不満とか」
梨紗「別に」
風助「……」
梨紗「眼中に無かったんじゃない?」

原作の桐島が発する「きつい言葉」が見方を変えれば不器用さの表れとしても受け取れるのとは、対照的といってよい。映画版の桐島は「設定」においてその完全無欠性を強調―というよりむしろ誇張されたうえに、部活と受験対策を天秤にかけるような独善的・実利的な側面や、バレー部のチームメイトを歯牙にもかけない超然性の持ち主として解釈可能な余地を残している。こうした文脈の延長線上には、桐島という「名」の多義性も浮かび上がってくるだろう。キリシマという名前はキリストとカリスマのアナグラムであり、彼が全知全能のキリストとして、かつ、その威光の前では誰もがひれ伏すカリスマとして読み換えられていることは想像に難くない。原作小説で特権的地位を占めることなく「人格」を垣間見せていた桐島は、映画化に際して超然性を漲らせる「キリシマ」に生まれ変わったのだ。桐島という名前をフックにして、さらに別の角度からも参照を加えてみよう。

彼らの描く物語においては、生きることそれ自体が、既に日常世界での過酷なバトルロワイヤルである。そこにゲームを支配する存在は成立せず、彼らは「戦わなければ生き残れない」現実を前提として受け入れている。たとえば『野ブタ。をプロデュース』の桐谷修二は、より上手に人気者キャラクターを演じられた人間が権力を手にできる教室の人間関係に勝ち抜くべく、自己と他者を「プロデュース」していき、その暴力性への疑問とそれでもゲームを戦わざるを得ない葛藤が作品の主題となっているのだ。
 ―宇野常寛「戦わなければ、生き残れない ―サヴァイブ系の系譜」(『ゼロ年代の想像力』二〇〇八/早川書房

ゼロ年代的な想像力の結実として、ポストモダン状況の寓話のように読めるバトルロワイヤル作品を紹介した批評家の宇野常寛は、文芸作品にも「スクールカースト小説」の台頭が著しいことを指摘し、その代表作のひとつとして『野ブタ。をプロデュース』を挙げた。引用箇所は『桐島』の補助線としても十分にスライド可能な説得性を保っている。ここでは、『野ブタ』の主人公が「桐谷」と名付けられていることが果たして偶然なのかという疑問もさることながら、一連の「スクールカースト小説」が「ゲームを支配する存在」の不可能性を前提としているという物語認識が重要である。

◆最初から「キリシマ」など存在しない
桐島が部活をやめたことで「校内の歯車が狂い始める」(公式ホームページ予告編より)ストーリーは、桐島を上述のような「キリシマ」と読み換えることによってすっきりと理解を進めることができる。作品をけん引する「桐島はなぜ部活をやめたのか」ないし「桐島とはいかなる存在なのか」というミステリに何ら回答が与えられないことも、もはやそうでしかありえない帰結として粛々と受け止められよう。熱烈な支持を集める一方、定型的な学園ドラマを期待して劇場に足を運んだ向きに『桐島』の評判はさほど芳しくないという声も聞かれるが、ひとつにはミステリ物としてのカタルシスが得られないことが要因と推測される。しかしながら、そうした批判や期待に対して『桐島』は応えようがないだろう。社会のポストモダン化が、キリストやカリスマに象徴される超越的な権威が失われていくプロセスとして要約されるのと寸分なくパラレルに、桐島は登場しないのではなく、最初から存在しないのだから。

≪映画版≫
友弘「(目を細める)……」
ミサンガをした竜汰がやってくる。
竜汰「わりい今日のウンコめっちゃ固くて!……ん?」
竜汰が友弘の視線を追おうとする刹那、友弘、突如走り出す。
竜汰「おいなんなんだよ!?」
 (…)
久保「(友弘に)おい、桐島は、桐島どこにいんだよ!」
友弘「(息を切らしながら竜汰に)桐島は?!」
竜汰「(息を切らしながら)いや、こいつらしか」

物語終盤、友弘は敬虔な信仰者がときにキリストを幻視するように桐島と思しき人物を屋上に見出すが、彼はやはり、どこにもいない。

◆みんな、前田のことが大好きだってよ ―サブカルホイホイとしての映画版『桐島』
「キリシマ」が存在しないという事実を受け止められない登場人物たちが右往左往するなか、まったく動じる気配を見せないのが映画部員・前田涼也である。前田の監督作品「君よ拭け、僕の熱い涙を」は、高校生自主映画コンクール「映画甲子園」において一次予選を通過するが、それは生徒の想像力を最初から矮小化しようとする映画部顧問の教師・片山が書いたシナリオを基に嫌々作ったものであり、到底納得いくはずがなかった。

≪映画版≫
片山「いつも言ってるけど、テーマは自分の半径一メートル。普段感じてることあるだろ、高校生として。受験とか、友人関係とか、恋愛とか」
武文「(前田を見る)」
片山「宇宙ゾンビも悪くないよ。悪くはないけど、キミたちにとってリアリティある?(武文に)ゾンビ。ある?」
 (…)
前田「全然マニアックじゃないですよ! バイオハザードでもアイアムアヒーローでも、オリジナルはもともとロメロの、」
片山「(遮るように)いやうん前田がその辺に詳しいのはわかった。でもおまえ……キミフケは青春のリアリティを評価されたわけだろ?」

一次予選の通過を快挙ととらえ、「青春のリアリティ」路線を今後も続けていくよう促す片山。だが、部活仲間であり親友の武文とともに『映画秘宝』を愛読する前田は、自分が本当に撮りたいと願う映画のシナリオを既に書きあげていた。その名も、「生徒会オブザデッド」。密かに撮影を進めようとする前田たちだったが途中、片山に「血は絶対ダメ」として理不尽にも中止を命じられてしまう。諦めきれない前田と武文は撮影の続行を決意する。
ここで原作小説に目を転じてみると、前田たちは自作の「陽炎~いつまでも君を待つ~」で映画甲子園特別審査員賞を受賞。顧問の片山が登場しないため制作上の対立は生じておらず、屈託もなく次回作は「青春モノ!」を撮ろうと盛り上がっている。露骨ともいえるこの対比から滲み出ているのは、サブカル映画愛好家への目配せである。

たとえば、国内において最大級の発行部数をもつ映画批評誌『映画秘宝』は、『世界の中心で愛をさけぶ』(二〇〇四年)や『ROOKIES』(二〇〇九年)などの主に一〇代~三十代女性層をマーケティングしたテレビ局主導制作のメディアミックス作品を、ウェルメイド批判の文脈で否定的に紹介し続けている。またその一方で、(略)猟奇的表現や特定ジャンルの映画史に大きく依存したマニアックなパロディを前面に押し出した作品(たとえばクエンティン・タランティーノ監督による諸作品)を擁護する。
 ―宇野常寛「ポスト・ゼロ年代の想像力」(『思想地図vol.4 特集・想像力』二〇〇九/日本放送出版協会)

宇野は、「大きな物語」(=社会の流動性を抑制し、個人の実存に意味づけを与える枠組み)が失効した現代では同時に、その解体を試みるカウンターカルチャーの回路も成立しなくなるとした。すなわち、社会において主流とされている価値体系への批判=物語批判が、コミュニティの正当性や同質性を確認する手段としてしか機能しなくなってくる。『映画秘宝』はその典型的な例に挙げられるというわけだ。
青春文学として理解される原作小説の中にあって、監督作品が大きな労苦も描かれることなく映画賞を受賞し、次回作となる「青春モノ」の構想を練る前田。これに対して映画版の前田が、半径一メートルのリアリティを唱える顧問・片山を「あの人、結局自分の趣味楽しんでるだけじゃん? なんだキミフケって。しかも続編って!」と切って捨てる様子は、『映画秘宝』が採用している(とされる)物語批判の態度と重なって見えてくる。映画版『桐島』は、原作小説においてマイナー文化部たる映画部ですらもが知らず知らずのうちに孕んでいたメインストリーム感をメタ批判することでダイナミズムを獲得しようとしており、こうした鮮やかな対立軸の提示が奏功して、サブカル映画愛好家の支持を集めているのではないだろうか。

◆仮構した「大きな物語」に対するマッチポンプ式批判
まずは先行して二作品間における前田の配置を検討したが、こうした構図は映画版『桐島』全体に敷衍することが可能である。原作小説における桐島はあくまでも普通の高校生であり、前田は顧問の教師に煩わされることもなく青春映画を撮影していた。それが映画化にあたってどのように改変されていったか。桐島はキャラクターを封印され、校内の秩序を担保する超越者「キリシマ」として、畏怖される存在として描かれた。そしてアンダーグラウンド映画を愛好するようになった前田は、映画版オリジナル設定として投入された口うるさい顧問という「妨害者」による(ストーリー構成上の)協力を得て、「キリシマ」なき世界でもっとも強く美しき者として表象されることになった。
ここにあるのは「大きな物語」の仮構とそれに対するマッチポンプ式批判、という構図であり、物語にダイナミズムを付与するために不可欠な操作とはいえ、メカニズムだけを抽出すれば「ハルマゲドン」をねつ造したオウム真理教の所作と何ら変わるところがないとも思えてしまうのである。

◆ここは退屈、だけど「キリシマ」は迎えに来ない
映画『桐島、部活やめるってよ』の公開と時期を同じくして、『ここは退屈迎えに来て』という小説が刊行された。地方都市を舞台とし、他人事と片付けられないようなやりきれない日常を活写した連作短編小説集である。
『ここは退屈』では八編の小説が、時系列を遡るようにして十五年ほどの長い時間を描き出してゆき、その全てに「椎名」という男が登場する。「椎名」は主人公の女の子たちと深くかかわりあうわけでは決してないのだが、彼の存在がさりげないようでいて人生の決定的な契機となったり、また、自らも「椎名」の在り方に少なからぬ影響をもたらしたりしている。そのような淡いといえばあまりに淡い「椎名」の姿が、どうしてか確かなものとして心に残り、存在を主張するのである。その感傷は、「キリシマ」という存在のシアトリカルな空虚さを否応なく際立たせてしまう。
部活をやめた桐島はその後、「椎名」として生きていくのではないか。私は今そう思っている。

ここは退屈迎えに来て

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